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薫る春
14
わからない。
立花家の男の子が二回ほど席を立って、チョロチョロしていたのを覚えている。
それから、乾杯の場面を撮るんだと言って、浪岡信一がデジカメを持って部屋を歩いていた。
たしか、安田登貴枝もジュースを注文しに傍へ来ている。
相続権を外されたどの家族にも、薬を入れるチャンスはあったということだ。
ううぅ〜。
強く身震いして、紗都はバッグを急いで開き、ポシェットから手帳と携帯を移し変えた。 ついでに時間を見ると、六時三十ニ分になっていた。
どうする?
左に行くと離れがあるのだから、右へ進めば玄関にたどり着くはずだ。 紗都はしゃにむに歩き出した。 ともかく、静まり返った巨大な屋敷から、一秒でも早く逃れたかった。
五分は歩いたと思う。 見覚えのある階段が目に入ってきて、紗都はほっとしたあまりによろけそうになった。
少し先に、玄関が広がっていた。 どっしりした靴入れから自分の靴を探し出して、紗都はコソ泥のように背中を丸め、できるだけ音を殺して引き戸を開けた。
ともかく、家にいる人々から声が聞こえない場所まで、早く行かなければならない。 そして、社長に電話して事情を話し、指示を仰がなければ。
なにしろ、自分は本物の『吉崎かおる』ではないわけだから、話はややこしかった。
まっすぐに伸びた敷石の上を十五メートルほど歩いて、紗都は築山に向かう脇道に曲がった。
丸く刈り込んだ沈丁花の陰に隠れるようにして、携帯を手に持った。 開いて番号を選んでいたとき、不意に声がした。
「何してるの?」
文字通り、体が勝手にピョンと跳び上がった。
首だけで振り返ると、昨日とほとんど同じ服装の江田青年が、池のほうから近づいてくるところだった。
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風と樹と空と
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