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表紙

薫る春  12


 一度は姿を消したレストランの従業員が、ワゴンを押して戻ってきて、湯気の立つ鶏料理を並べた。
 子供たちにはライムジュース、大人にはロゼワインが用意された。 登貴枝は、アルコールが飲めないと言って、子供と同じジュースを注文した。
 テーブルに飲み物が行き渡ったところで、信一がグラスを掲げて音頭を取った。
「那賀子おばさま、おめでとうございます。 乾杯!」
「乾杯!」
 皆がいっせいに声を合わせた。
 紗都は大のワイン好きなので、淡いピンク色の液体を喜んで飲み干してしまった。


 やがて、人の話し声が遠のき始めた。 上げても上げても瞼がずり下がってくる。 紗都は慌てた。
――今日は随分歩いたし、いろんな情報を詰め込んで頭も疲れた。 でも、こんなに眠くなるなんて……おっと――
 テーブルに額をゴンとぶつけそうになって、紗都は急いで上半身を反らして目をこすった。
 右のテーブルで達矢にオレンジの皮をむいてやっていた杉本が、その様子に気付いて傍に来た。
「大丈夫ですか?」
 紗都はつるりと顔を撫で、元気にみせようとした。
「ちょっとくたびれただけ。 何ともないです」
 ナイフできれいに肉を切り分けていた那賀子が、やさしい調子で言葉をかけた。
「今日はよくやってくれたわ。 気苦労だったでしょう。 もうここはいいから、早めにお休みなさい」
「でも……」
 まだ八時ちょっと過ぎだ。 こんな時間に、赤んぼみたいにもう眠くなって、と、紗都は恥ずかしかった。
 那賀子夫人の手が伸びて、紗都の右手をそっと叩いた。
「いいのいいの。 明日は弁護士さんが九時に来るから、それまでに起きてね」
「……はい」
 那賀子の声までワウって聞こえ出した。 紗都は、まだ歩けるうちに部屋へ戻ろうと決め、椅子を引いて立ち上がった。
 とたんに目まいがした。 杉本が心配そうに耳打ちした。
「部屋、覚えてますね? 廊下は薄暗いから足元に注意なさって」


 離れから母屋の廊下に上がる段差で、つまずきそうになった。 廊下の両側に続く襖が、細かく波打って見える。 しばらくよろめき歩いた後、ほとんど手探りで割り当てられた部屋を開くと、紗都は中に転がり込んだ。
 そして、畳の上にふらっと崩れて、すぐにイビキをかき始めた。





 自分のくしゃみで目が醒めた。
 手足を伸ばすと、シャリシャリという衣擦れの音がした。 まだドレスを着たままだったのだ。
 とたんに昨夜の集まりが記憶に蘇って、紗都は急いで体を起こした。
 十ニ畳ほどの和室は、がらんとしていた。 布団、枕、いっさいない。
 たから冷えて寒くなったらしい。
「布団の準備、忘れたのかな」
 ぶつぶつ言いながら、紗都は立ち上がった。 そして、布団だけでなく、置いてあるはずの着替えた服や肩掛けトートバッグまでないことに気付いた。









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背景:風と樹と空と
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