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薫る春
10
紗都に割り当てられた部屋は、渡り廊下を戻って母屋に入ったところの左側五番目だった。
当然、和室だ。 迷うといけないからと、家政婦の杉本が表の柱に花模様のシールを貼ってくれた。
「札をかければいいんでしょうが、由緒正しい檜〔ひのき〕の柱ですから、むやみに釘を打ったりしたくないんですよ。
ここにマークか何かご自分で見分けのつく絵を書いといてください。 名前はよしたほうがいいです。 鍵がかけられませんからね、若いお嬢さんの部屋だとわかってはよくないです」
「ありがとう」
だだっ広い上に同じような部屋がずらりと並んでいる家は、使いにくい。 いっそ旅館みたいに番号つけたらどうかな、と思ってしまった。
『かおる』だから顔マークだ、と連想風に決めて、紗都は杉本に借りたサインペンでニコちゃんマークを描いた。 それから二人は急いで離れに引き返し、紗都は食堂で那賀子夫人の相手、杉本はホールで準備の仕上げにかかった。
祝いの会は、表向き『かおる』が開いたことにしてあった。 だから紗都は開会の挨拶をすることになり、左手だけでは間に合わず右腕の内側にもカンペを書き並べた。
そして、いよいよ午後七時が来た。
親族たちがそれぞれのテーブルに落ち着いたのを確かめて、紗都は那賀子と共にドアから入った。
パチパチと拍手が起こり、三組の親戚は席を立って那賀子を迎えた。
「おめでとうございます!」
「お元気そうで安心しました」
我先に祝いの言葉が飛び交った。 どこか媚びるような響きがあり、あまり心が篭もっていないように、紗都には感じられた。
那賀子夫人はゆったりと首を下げて、祝福の言葉に応じた。
「ありがとう。 皆さんよく来てくれたわ」
そして、にこやかに紗都を振り返ると、さらっとした口調で紹介した。
「この子がね、喜寿のお祝いをどうですかって言ってくれたの。 若いのに気配りがよくて」
一斉に、視線が紗都に集中した。 痛いほどだった。
微妙な沈黙の後、ヒョロリとした立花親生〔たちばな ちかお〕が親族代表になって尋ねた。
「ええと、初めて会うんですよね?」
「そうだった?」
那賀子夫人は、平気でとぼけた。
「この子はね、吉崎かおる。 藍子さんの忘れ形見なの。 信一さん登貴枝さん、あなた達は藍子さんを覚えているでしょう?」
丸っこい信一と、キツネのように尖った顔をした登貴枝は、ぎこちなく目を見合わせた。
「あの、亡くなった大叔父さんの……」
「そう、貢〔みつぐ〕叔父さんの妹の、藍子叔母さんでしょう? でも……」
登貴枝のほうが、素早く気付いた。
「なんで吉崎の姓なんですか?」
「私の養女にしたから」
その答えを聞いたとたんに、三つのテーブルはシーンとなった。
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風と樹と空と
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