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表紙

薫る春  7


「相続人……ですか」
「そう。 あ、心配しなくていいのよ。 代理をやってもらうのは、今夜と明日一杯だけなんだから。
 かおるはね、夫の妹の子。 死んだ夫は長男で、妹は末っ子だった。 この家を残した夫には、他にニ人男の兄弟がいたんだけど、みんな若いうちにあの世へ行ってしまってね。 結婚もしない内に」
 那賀子夫人は少ししんみりして、お茶を上品にすすった。
「夫は妹の藍子〔あいこ〕さんを猫っかわいがりしてて、いつまでも手元に置いときたかったの。 結婚に反対された藍子さんは、とうとう駆け落ちしてね……ずっと行方知れずだったのよ。
 夫が亡くなってから探したら、藍子さんのほうが先に病気で死んでいたわ。 でもね、彼女、四十過ぎてから子供をひとり産んだらしいとわかったの。 つまり、かおるちゃんを。
 さっそく呼んでこようと思って、今探しているところ。 今日までに見つけて連れてくるはずだったんだけど」
「まだ見つからないんですね?」
「そうなの。 親戚が集まったところでお披露目するつもりだったから、どうしても身代わりが必要でね」
「えーと、後で本物が来たとき、前に会ったあの子と違うって騒ぎになるんじゃないかと……」
「そんなの気にしないわ」
 那賀子夫人は、おおらかに言ってのけた。
「もう遠縁の人たちとは会わないから。 あの人たちだって、遺産が入らないなら、私になんか鼻も引っかけないでしょ」



 なんかヤバくね? と頭の奥で声がした。 しかし、六万五千円の魅力は、そんな声を吹き飛ばすほど大きかった。
 改めて紗都を失礼でない程度に観察して、那賀子夫人は満足げに言った。
「ワーク・カサイさんは、いい人選んでくれたわ。 かわいいし、声も上品。 さあ、そろそろ向こうへいってお着替えしましょう。 根掘り葉掘り質問されたときにちゃんと答えられるよう、データを覚えてもらわなくちゃね」





 食堂兼応接室を出て、すぐ隣りのドアを開けると、そこは相当広いホールだった。 長方形の部屋には半円形に張り出したテラスが五つ並び、その間の壁には花型のクラシックなライトが豪華なアクセントになっていた。
 隣りにいてまったく音が聞こえなかったのが不思議なほど、その小ホールでは何人もの人間が動き回っていた。 金色と白に塗り分けたテーブルと椅子を運び、クロスをかけ、花を活け、カトラリーを並べる。 まるで外国映画のワンシーンのようだった。










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背景:風と樹と空と
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