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表紙

 その143 彼の家へと





 藍音の背中に倒れるように、加藤の体が覆い被さった。 何ヶ月もがんばって表面に張りめぐらせていた氷が割れて、中に押し込めていた感情が一気に溢れ出てきた。
「おれも探した。 引越し先も仕事場も知ってる。 ときどき見に行ってたの気付かなかったろ?」
「全然」
 そう答えながら、藍音は彼が渡部邸に姿を見せたことを思い出していた。 それを聞かされたから、今まで希望を持ち続けられたのだ。
「藍音がきっちりやってたから、おれも折れなかった。 意地で。 それしかなかった」
「私は新しい環境に逃げてただけ。 幸せだったと思う?」
「あいつとストレス解消してたじゃないか」
「それを言うなら、彼でストレス解消してたの。 知らないうちに、どこかで八つ当りしてたような気がする」
 藍音は考え込んだ。 その肩を加藤が掴んで持ち上げると、激しく唇を奪った。


 暗闇に、突然火が灯った気がした。
 藍音は子猫のように彼の胸を伝って体を持ち上げ、夢中でキスし返した。
 人通りの少なさを、こんなにありがたいと思ったことはなかった。 対向車がやっとすり抜けられるほどの狭い道幅だが、誰も来ない。 路上駐車したセダンの中で、二人は幾度も幾度も唇を重ねた。
 首筋がほてり、頭がくらくらしてきた頃、加藤が囁いた。
「うちがすぐ傍なんだ。 親に紹介したいんだけど、行っていいか?」
 藍音は目を見開いた。 こんな格好で? と口に出かけたが、実は彼に逢えるかもしれないと夢見て、上から下までちゃんと気を遣ってきた。 だから服装は問題ない。
 家族へ正式に紹介してもらえば、婚約は目前だ。 藍音は心を固め、しっかり頷いた。


 すぐに加藤は車を出した。 交ぜ垣の乙女椿の葉が、ライトにきらりと光った。
 近況を語る加藤の声も、明るく弾んだ。
「おれ、刑事部長になった。 時間が余るんでガリガリ勉強して」
「おめでとう。 すごいね」
 藍音は声を弾ませた。 二重に嬉しかった。 彼が出世したのと同時に、余暇を他の女性とのデートに使わなかったのがわかったから。
「今は豊島区の支店にいるんだ。 あ、支店って警察署のこと」
 移動になったんだ。
 警察は転勤が多いという話を、前に聞いたことがあった。
「じゃ、本店は警視庁?」
「うん、東京はそう」
「新しい署はどんな感じ?」
「わりと暇だよ。 住宅街にあるから」
「よかった、治安の悪いところじゃなくて」
 警察官は危険な仕事だ。 やっと取り戻した加藤を、藍音は失いたくなかった。 やがて警官の妻になるからには、ある程度覚悟しなければならないにしても。











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