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その1 春の通りで
いい匂い……
アパートのある小路から、大きなプランターが整然と並ぶ通りに出たとたん、藍音〔あいね〕は思わず目を閉じて、深く息を吸いこんだ。
この優雅な香りは、たしか木蓮〔もくれん〕だ。 角に広めの家を構える都筑〔つづき〕さんの庭にあって、ライラックにはまだ早いこの時期に、ふくいくとした芳香をそよ風に載せて運ぶ。
「ね? いい匂いだね、トビーちゃん?」
すると、足元にいた小柄なテリア犬が、わかったような顔をして短い脚を揃えて座り、藍音の顔を見上げてまばたきした。
トビーは同じアパートにいた中年男性の愛犬だった。 中谷〔なかや〕というその男性は、若い頃に交通事故で形成手術をした際に肝炎にかかってしまったという不運な人で、保険金で細々と暮らしていた。
彼の慰めで唯一の家族はトビーだった。 養生のために早寝する彼は、毎朝早く目が醒めるので、自然とトビーを早朝に散歩させる癖がついた。 そして病が昂じて昨年末に世を去った後、藍音がトビーを引き取り、散歩の習慣も引き継いだのだった。
エチケット袋と紙スコップを入れ忘れていないか確認した後、藍音はトビーと共に歩き出した。 新聞の配達人は三時頃から五時前までに配り終わるし、六時前に出勤する人はこの付近にはいない。 空はすっかり白んでいるが、文字通り人っ子一人いない不思議な時間帯だった。
だが藍音は、その静けさを断ち切る軽い音を期待していた。 そして、いつものように最初の四つ角を左に曲がったところで背後から聞こえてきたので、嬉しくなった。
それは、ジョギングをしている足音だった。 毎日かならず走ってくるというわけではない。 だいたい二日に一度で、たまには三日、四日と間が空くこともあった。
タッタッタッというシューズの音が、幅三・五メートルほどの道を走ってきて、横に並び、追い越していく。 時間にして一分もないそのときを、藍音は密かに楽しみにしていた。
駆け足で来るのは、若い男性だった。 たぶん二十代後半から三十代の初めくらい。 冬の間はジャケットのフードを被っていたが、最低気温が十度前後まで上がってきた最近では長袖のスウェットシャツと裾を絞ったワークパンツだけになり、足を運ぶたびに起きる風で前髪が吹き散らされて、精悍な顔がはっきりと見えるようになっていた。
彼に気づいたのは、中谷が亡くなってトビーを飼うようになった後だった。 でもおそらく、その前からずっと走っていたのだろう。
彼の名前は知らない。 きっと彼のほうも藍音のことは何一つ知らないはずだ。
だが、出会うたびに僅かな時間、視線を交わしているうちに、親しみに似たものが通い始めた。
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