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その141 孤独と理解
彼の襟元は、深い息で開いたり閉じたりする。 その度に懐かしい匂いがした。 藍音は目をつむり、彼の温もりを心ゆくまで感じ取ろうとした。
やがて頭の横から、くぐもった声が伝わってきた。
「今でも庶民の生活してるんだな。 就職してガンガン働いて」
「だって庶民だもの。 それにまだ事務所でうろうろしてるだけ。 ガンガンなんて全然」
藍音も小声で答えた。 それから嬉しいことを一つだけ思い出して、スーツに包まれた加藤の胸に手を当てた。
「お父さんが東京に転勤になったの。 卒業式に出てくれて、写真も一緒に撮った」
「今ごろ?」
そっけない反応にも、藍音はめげなかった。
「お父さんもそう言ってた。 私に悪いことしたって」
加藤に話しているうちに、胸が迫ってきた。 彼に打ち明けると心がほぐれる。 子供のように素直になれるのだった。
「お父さん実家にいて、ときどきお母さんが手伝いに行ってる。 見てて思うんだけど、お父さんはお母さんのところに戻りたかったんじゃないかって」
話しながら気付いた。 なんとなく感じていた定まらない不安が、次第に形を取ってきた。
父と母は、本当に気の合った仲のいい夫婦だったのだ。 その仲を、藍音が引き裂いた。
赤ん坊には責任がなかったとはいえ、母が藍音を庇い、娘のほうを取ったことで、父は深く傷ついたにちがいない。
去っていった父への意地もあって、母は女手ひとつで娘を育てあげ、立派に教育を受けさせた。 もうそろそろ肩の荷を降ろして、自由にしたいことをさせてあげるべきなのだ。
でも、お母さんが保谷(今の西東京市)に行ってしまうと寂しい……
親離れの尻尾を残した藍音が悩んでいると、加藤が不意に言った。
「九州のお父さんは女性問題なかったよ」
藍音はぎょっとなって顔を上げた。
「そんなことまで調べたの?」
「事件の関係者の関係者は全部しらみつぶしにされるんだ」
黒ずんだ瞳が見返した。 その眼にはもう、初めの距離を置いた冷たさは消えていた。
「休みは支店の仲間と飲み会するか、好きな釣りに行ってるか。 ゴミ出しなんかもきちんとしてて、近所の評判がよかったな」
藍音の心が温かくなった。 そうだ、父も母も筋を通す性格だから。
「私、今でもお父さんの子って気がする」
思わず呟くと、加藤の手が降りてきて、後頭部に触れた。
「お父さんもそう思って、今になって後悔してるんだろ?」
「だと嬉しいけど」
遂に涙がにじんできた。 藍音が下を向こうとしたとき、再び加藤が強く抱きしめて揺すった。
「俺も後悔してる。 もっといい手があったんじゃないかと」
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