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 その139 意外な素顔





 幸い、加藤は藍音のごまかしに気付かなかったようだった。 たまたま角を曲がってきて横を通り過ぎた自転車に目を留めた後、彼はまた藍音に向き直って、手短かに言った。
「話がある。 五分でいいんだ」


 わっと高鳴りかけた胸が、一瞬で静まった。
 たった五分って……急がなくてもいいんだから、と答えそうになって、藍音はあわてて口を押さえてしまった。
 加藤は相変わらず強ばった表情をしている。 ちっとも楽しそうではなく、むしろ出逢ったのが苦痛に見えた。
「ちょっと車に乗ってくれる?」
 五分だけね。
 藍音は口をぎゅっとつぐんで頷き、自分から彼の車に向かった。


 ドアを開けて藍音を助手席に座らせると、加藤はぐるっと前を回って運転席に乗り込んだ。 そのとき、手が胸のポケットに入り、乗ったときにはもう長方形の何かを取り出していた。
 携帯電話かと思ったが、ボタンの配置が違った。 加藤はその小さな機械に目を置いたまま、ぽつんと前置きした。
「あいつは駄目だよ。 これ聞いたらわかる」
 それから二つのボタンを交互に押してサーチした後、再生と書かれた黒いボタンをグッと押した。


 最初に小さなスピーカーから出てきたのは、ざわざわした雑踏の音だった。 車の音や呼び声、信号が切り替わるときのアナウンスも聞こえる。 どこかの街角らしかった。
 その雑音に混じって、高めの男の声がした。
「うーん、ここんとこちょっと迷ってるんだ」
「何を?」
 話し相手らしいかすれた太い声が訊いた。
「どれくらい貰ってるのか、よくわからなくてさ。 まじで迫っても、肝心の遺産受け取ってなかったら意味ないだろ? 結局、ただのパシリかもしれないし。 家片付けに来たっていってもさ」
「ちょっとの涙金でやらされてたってこと? 哀れだなー」
「いや、そうとも言い切れないんだけど。 ともかく正体がよくわからないんだよ」
「ただのガリコじゃねーのか? そう言ってたじゃん」
「ちがう。 それはちがった。 おそろしいほどの体育会系。 気ぃ強いし。 一度スノボーに付き合ったんだけど」
 そこで声に泣きが入った。
「オレより上手いんだぜ。 ガーッてゲレンデすべり降りて、追い越して消えやがんの。 ぜったい膝にサスペンション入ってるよ、あの子」


 そこまで聞いて、藍音は我慢できなくなって思わず笑った。
 加藤の目が、その口元に釘付けになった。
「怒らないのか?」
 笑みを残したまま、藍音は首を小さく振った。
「山路さんでしょう、これ?」
 ちょっぴり苦い思いはあったが、それより彼の気弱ぶりが可笑しかった。
「そうか、遺産狙いで近づいてきたのね。 でも何だか、私のこと怖がってる」
 完全に腰が引けているようだ。 お人よし(に見えた)山路が素直に誘いに乗るのをいいことに、あちこち引っ張り回したことを思い出して、藍音はまた吹き出したくなった。











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