表紙目次文頭前頁次頁
表紙

 その137 突然の願い





 卒業式の二日後から、藍音は実質上、税理事務所の一員になった。
 その前に、これまでバイトを続けていた店々へ別れの挨拶をしに行くと、どこも藍音が辞めるのを惜しんだ。 薬局の主人のように、就職祝いを兼ねて餞別〔せんべつ〕をくれる人もいた。


 三月の後半と、正式な入社式を終えた四月は、無我夢中で過ぎた。 勤務先の近くに住まいを移してよかったと、心から思った時期だった。 家までバスで十分、電車だと一駅。 自転車でも通える距離で、通勤疲れはほとんどないと言ってよかった。
 その分、職場での緊張を家まで持ち込むことがあったが、陽気なトビーの相手をしていると、いつの間にか薄れた。


 五月に入ると、がんばり続けた反動が来た。 新しい環境の疲れが出る、いわゆる五月病の時期だ。
 毎日が進歩せず、同じことの繰り返しに思えてきた木曜日の夕方、退社した藍音は、心の底でずっと変わらず脈打っていた願いに、ふっと取りつかれた。
 晶に会いたい!
 そう思った瞬間、藍音はいつもと違うバスに乗り、もと住んでいた府中市に向かった。


 バスから電車に乗り継いで、懐かしい駅に降りたとき、すでに日は落ちて、街は様々な色の照明に覆われていた。
 ここへ戻ってみたところで、加藤の住所はわからない。 むしろ職場のM署に行ったほうが近道かもしれないのに、藍音はこっちに来てしまった。
 今日は、前に見つけた三丁目と四丁目の加藤宅を回る決意だった。 今は用心のため、表札に苗字だけか代表の男性名だけを書く場合が多い。 だから前に探したときも、どの家か断定できなかった。 おまけに、暗くなってから赤の他人の家を訪ねるのは礼儀に欠ける。
 それでも藍音は、三丁目行きのバスに向かった。 道を巡り歩いていれば、彼に逢えるような気がする。 そう夢中で思い込んだのは、美しく晴れた五月の夕べに、突然迷う魂に取り付いた夢魔のしわざだったのだろうか。




 七時前だというのに、住宅街は静かで、人通りがほとんどなかった。 たまに灯りをつけた自転車がすれ違うくらいだ。 街灯に照らされた道を進む藍音のローヒールの音が、透過アスファルトに当たってコツコツと小さく響いた。
 前に探し当てた『加藤』宅の場所は、すべて覚えていた。 迷わず角を曲がり曲がって歩いていくと、車のライトが背後から当たり、藍音の影を前に長く伸ばした。











表紙 目次 前頁 次頁
背景: はながら屋
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送