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 その134 思わぬ提案





 ダイニングを兼ねたリビングに落ち着いた後、親子は改めてお互いをじっくり眺めた。
 敦彦は、初め寿美が見たとき、ほとんど昔と変わっていないように思えた。 だがこうして真正面から観察すると、やはり細かい違いは隠せなかった。 生え際に白髪が混じっているし、口の横の皺も、こころなしか深くなっていた。
 藍音が急いで焼いたパンに敦彦がピーナッツバターを塗るのを、寿美は懐かしそうに見守った。 藍音もそれを見て、子供時代の茶の間に帰った気分になった。
 コーンポタージュのカップに手を伸ばしたところで、敦彦はまだ妻と挨拶を交わしていないことに、突然気付いた。 それで一旦カップを下に置くと、低く咳払いした。
「あのさ」
 寿美も、スクランブルエッグを乗せたトーストを皿に戻して、小声で応じた。
「なに?」
「四月から本社に戻ることになったんだ」
「あら…栄転?」
「まあな」
「それはおめでとう」
 ぎこちない会話は、そこで途切れた。
 薄茶色のピーナッツクリームに視線を据えたまま、敦彦が先に話を継いだ。
「手当ては減るけど、給料は増える。 だから、ここのローン、手伝ってもいい」


 仰天の提案だった。
 母子は食べるのも忘れて、固まってしまった。
 やがて寿美が、おそるおそる尋ねた。
「だって敦彦も大変でしょ? 引越しとか新居探しとか」
 驚きすぎて、つい昔の呼び方に戻っていたが、夫婦二人とも気付かなかった。
 言いにくいことを思い切って口に出した後、敦彦は大幅にホッとしたらしく、好物のトーストをさっさと口に詰め込んだ。
 そのせいで不明瞭になりながらも、彼は次の言葉に取りかかった。
「お袋が一昨年に死んで、寂しくなった親父がシルバーマンションに入るって言い出したんだ。 で、狛江〔こまえ〕のアパート売って資金作って、去年に伊豆の温泉つきマンションに移った。 だから実家が丸空きでさ」
「落合〔おちあい〕の?」
「そう。 だから俺の住むところはあるんだ。 ただで」
「それは……よかったとは言えないわね。 お義母さん、亡くなったんだ」
 寿美の声が途切れた。 会いに行けず、看病もできなかったことが重くのしかかっていた。
「お袋のことはいいんだよ。 妹が面倒見たから。 俺も半年ほど入院費送った。 離れてるんで、本社へ報告に行ったときに三度ぐらいしか見舞いには行けなかったけどな」
 二人がしんみりしている間、祖母をかすかにしか覚えていない藍音は、別のことに胸を躍らせていた。
 父は遺産のことをまったく知らない。 その状況で訪ねてきて、援助を申し出てくれたのだ。
 しかも、藍音に詫びてくれた。 これは明らかな雪解けの兆しだった。









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