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 その128 新しい住処





 小さなアパートでも、長く住めばそれなりに家具や身の回り品が増える。
 藍音と母は、仕事と勉強の合間を縫って、こつこつと荷物をまとめた。 早く始めたので時間に余裕がある分、持って行く物を選ぶのに悩みが増えた。 どれも愛着があって捨てられないものばかり。 迷ったあげく、重量のあるものから思い切って処分することにした。
 たとえば食器や、使い古した机、座り心地はいいが端がすりきれてきた座椅子などだ。 新しいマンションに入れたらボロく見えるのはわかっていても、粗大ゴミに出すときは悲しくなった。


 そして秋の末、小型トラック一杯の引越し荷物と共に、二人は新築のマンションに移った。 その前に、母は九州の父に手紙を書いて引越しと新しい住所を知らせた。
 ただし、藍音の巻き込まれた騒ぎについては一切ふれなかった。 これまでも、娘の実の父親については固く口を閉ざしていたからだ。
 父はすぐ返事をよこした。 そして驚いたことに、藍音の卒業式に出たいと書いてきた。
 その手紙を娘に渡すと、母の寿美は複雑な面持ちで言った。
「きっと区切りをつけたいのね。 卒業の節目って、話し合いにいい時期だから」
 父は再婚したいのだろうか。 藍音は父の返事を二度読んでから、母に返した。 短い手紙見覚えのある角張った字が、懐かしい思いをかきたてた。
「式に来てくれるのは嬉しい。 やっぱお父さんとしてかな?」
「そりゃ、そうでしょ……う」
 母の声が低くなった。 内心の葛藤〔かっとう〕が、語尾の小さなもつれに表れていた。




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 冬の初め、加藤は昇進試験に合格し、巡査部長になった。
 彼もまた、仕事の空き時間をひたすら勉強に費やしていた。 朝に走るのは、もう止めていた。 長い間、ひそかな幸せの元だったが、今は思い出すのも辛い。 夜や夕方に走ることはあったが、体を鍛えるのにアスリートジムに通うようになった。
 藍音が遺産に惑わされず、猛暑の中、将来の勤め先の試用期間をがんばり抜いたことを、彼は知っていた。
 そして、負けるもんかと心の中で誓っていた。 加藤には加藤の意地があったのだ。
 たとえ永久に、藍音に真実を告げることはできなくても。









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