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 その126 新しい仕事





 確かにこの世は厳しい。
 準備期間として夏の三週間を務めあげた藍音は、学生時代とはまったく違う緊張感に戸惑った。
 顧客への接し方はすぐ覚え、落ち着いていていいと誉められるまでになった。 バイトを長くやっていた成果だろう。
 社屋は、よくあるようにビルのフロアを貸しきるか所有しているのとは違い、表通りから一区画引っ込んだ住宅街にある一軒家のオフィスだった。 狭いが庭もあり、業者が定期的に手入れしていて、明るい応接室から季節おりおりの植木が美しく見えた。
 夏だから、庭はコリウスとインパチェンス、背景はひまわりでまとめられていた。 今度買う予定のマンションには、わりと広いベランダがある。 大型のプランターを並べて花で飾ってみようか、と、窓の広いその部屋に入るたびに思った。
 だが、そんな心の余裕はそこだけで、後は気を使うことばかりだった。 まず、五人いる税理士の名前と机はもちろん、得意分野から飲食物の好みまで覚える必要があった。 仕事が立て込むとき、よくデリバリーを頼まれるからだ。
 一度配達を頼むか、買いに出されると、次からは店の名前と場所を覚えていて当然という扱いになった。 メモでは目立つし書いていると手間取るので、藍音は小型のボイスレコーダーを買って、どんな細かい指示でも録音するように心がけた。
 

 次に大変だったのが、業務用の端末の使いこなしだ。 プロ用のプログラムだから専門的知識が要る。 初歩的な使用法を覚えるのに何日も必要だった。
 一緒に試用された二人の男子のうち、一人は十日で音を上げて、出社してこなくなった。


 もう一人はとても優秀で、機器に強かった。 初めはやや無愛想で無口だったが、環境に慣れてくると、ただ緊張で固くなっていただけだとわかった。
 新人二人きりになったため、藍音は自然とその青年、船戸孝太〔ふなと こうた〕と助け合うようになった。 船戸は藍音より四つ年上で、すでに税理士試験の大部分を取り終えていた。 彼の方が年齢でも実力でも上ということで、藍音は素直にアドバイスしてもらえたし、船戸も彼女をライバル視せずに同輩と後輩の中間のような形で話し相手になってくれた。

 苦労しているうちに、三週間はあっという間に過ぎ去った。
 このオリエンテーションがあって本当によかったと、藍音は思った。 努力の甲斐あって、最終日には先輩たちから笑顔と拍手が貰えたし、望月〔もちづき〕所長も辛口ながら、激励の言葉をくれた。
「二人ともよく頑張りました、と言いたいところだけど、よく、は取っちゃったほうがいいかな。
 でも、努力は充分でした。 それは認めます。 根性は二人ともあるよ。
 じゃ、経験したことを冬まで忘れず、さらに磨きをかけて正式入社してきてください。 もちろん、資格全獲得にいっそう力を入れること。 待ってるからね。 逃げるんじゃないぞ」
 笑いと共にオリエンテーションは終了し、二人の口座には臨時雇いの形で、初めての給料が払い込まれた。









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