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表紙

 その124 行き交う心





 加藤の後ろ姿が角に消えたとき、藍音の気持ちも一つの区切りを迎えた。
 相変わらず事情はわからない。 だが、もう付き合いたくないという加藤の気持ちは、本物だった。 それだけはわかった。


 体温が数度下がったような感じだった。 手足がしびれ、頭も動かない。 後で考えると、かえってそのほうがよかった。 深刻な胸の痛みをしばらく感じないですんだから。
 ぼんやりしたまま、藍音はいっそう風の強くなった戸外へ出た。 生ぬるい初夏の風が、髪をすくって顔に投げかけてきた。
 反射的に払いのけながら、藍音は足を速めた。 前も見ずやみくもに進んだため、気がつくと駅横の高架下を通り抜けて、向こう口に出そうになっていた。
 ゆっくり引き返して、駅の階段を上っているうちに、心が虚ろになってきた。 そして悟った。 私は晶を好きなだけじゃない、頼っていたのだと。
 男の人を頼りにしたのは初めてだった。 父親が二人いるのに、どちらもこれまで藍音を守ってはくれなかった。 だから母と助け合って暮らしてきた。 しかし、一番苦しいとき、藍音を信じて支えてくれたのは、知り合って間もない加藤だった。
 彼がいなかったら、藍音は崩れてしまったかもしれない。 実際、一度もうろうとなったときに、やってもいない殺人をふっと認めそうになった瞬間があった。


 彼を取り戻したい!
 藍音は突然顔を上げた。 駅構内に入って風が当たらなくなり、空気まで和らいだ気がした。
 そうだ、時間を置こう。 事件のほとぼりが冷めて、周囲が落ち着いてから、もう一度、彼にアタックしてみよう。
 さっき加藤の目に浮かんだ情熱の光に、藍音は賭けた。 別れの辛さを心から追い出すために、目標を立てたのだ。
 でも、それまでに彼が新しい恋を見つけたらどうしよう。
 不安が頭を駆け抜けたが、懸命に退けた。 遠い希望に望みを託することで、藍音はいくらか元気を取り戻し、ホームに向かっていった。


 加藤はゆっくり体を回して、廊下の突き当たりにある窓に背を向け、壁に寄りかかった。
 藍音の姿が見えなくなるのは、あっという間だった。 しなやかに髪がなびき、入り口前の段を降りるとき一瞬だけ顔が見えた。
 こっちを見上げたらどうしよう。
 はっとなって思わず上半身を引きかけたが、杞憂だった。 ちらりとも建物を振り返らず、藍音は跳ぶような足取りで遠ざかっていった。









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