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 その120 期待と失望





 予備の服は置いてある。 手早く着替えてさっぱりすると、藍音は家中の戸締りを点検した後、玄関を内側からしっかり閉じ、裏口から出ようとした。
 そのとき、声が耳に入ってきた。 よく響く声で、聞き覚えがあった。 確かに山路青年のものだ。
「あっちへ行ったほうが近道ですよ」
 相手の声が低く答えるのが聞こえた。 山路よりだいぶ遠いようで、はっきり内容がわからない。 それでも、もしかしたら加藤じゃないかと思いたい気持ちが先に立って、藍音は急いで裏門まで行き、道を覗いた。
 そこにいたのは山路だけだった。 しかも、もう背を向けて、自宅に入ろうとしている。 藍音がその姿を目で追っていると、三軒ほど向こうの道端に止まっていた車が動き出した。
 藍音は目を見張った。 加藤の車に似ている。 一回しか乗ったことはないし、藍音は車に詳しくないので確実とは言い切れないが、でも見覚えがある気がする。
 車はこちらに後部を見せて、遠ざかっていった。 藍音が思わず道に小走りで出たとき、庭に入りかけていた山路が振り向いて、すたすたと戻ってきた。
「あ、帰るとこ?」
 どんどん小さくなっていく車を見つめながら、藍音は上の空で返事した。
「ええ」
「門がまだ開いてますよ」
 ああ、そうだった── 一度振り向いてから、藍音は山路に尋ねてみた。
「あの、今話してたのは?」
 山路青年は藍音につられて振り返り、遠くの角を曲がっていく車を見た。
「ああ、道に迷っちゃったんですって。 古いナビって、もう時代遅れになったのがあるから」
 そういえば、近道がどうとかって話してたっけ。
 一挙に気分がしぼんだ。 藍音は重くなった踵を返し、裏口の鍵をかけてから、山路に小声で挨拶して歩き出した。




 それから二週間あまり、夏休みが近づくまで、藍音はひんぱんに渡部邸に通い、書類や貴重品を整理した。
 加藤は一度も来なかった。 報道陣を警戒してなかなか片付けに行けなかったため、すれ違い状態になったのかもしれない。
 七月に入り、渡部の評判にかかわりそうな物がすべて仕分けされた。 それでもただ一つ、見つからないものがあった。 例の沈没船詐欺関係の、出資者名簿だった。
 そんなものはなかったのかもしれない。 だが手に入るなら、藍音にはぜひ必要な書類だ。
 やはり警察に問い合わせて確かめるしかない。 藍音は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。










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