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 その115 呼びかけで





 六月の半ば、そろそろ気温が高まってきた日曜日に、藍音と母は重い腰を上げて、渡部邦浩の死亡した家に出向いた。
 遺産管理を任された高槻弁護士が警察に赴き、証拠品として押収された品物の返還を確かめ、鍵を預かってきてくれた。


 広い屋敷は、静まり返っていた。
 誰も手続きを取らなかったため、まだ電気など全てのライフラインは繋がっていて、中に入るのに不自由はなかったが、住人を失った家はどこか寒々として、初夏というより秋の終わりを思わせた。
 広い玄関と廊下に、ダンボールの箱が山積みになっているのも侘しかった。 まるで引越しを途中で止めたようで、よそよそしさがいっそう感じられる。 藍音たち母子は、半身になって箱を避けて、中に入った。


 二人は客間の前で手を合わせ、昇天を祈った。 目を閉じている間、藍音の脳裏には渡部邦浩との昔の記憶が断片的に浮かび、離れたところから黙って彼女のためを思ってくれた実父への愛情がひたひたと湧いてくるのを感じた。
 手を下ろして顔を上げると、母はしんみりと口にした。
「渡部は藍音のこと、すごく誇りにしてたのよ。 大学に受かったとき、私に電話してきて、やっぱり君の育て方は正しかった、自分でがんばらなくちゃと思うから能力が開花したんだ、って誉めてくれた。 正直、嬉しかったわ」
「能力が開花したって……受験に受かったぐらいで」
 藍音は当惑したが、母は聞かなかった。
「就職もすぐ決めたじゃない。 そのまま初志貫徹しようとしてるし、本音を言うと私も自慢よ」
「財産持ちのプーになってもしょうがないもの」
 藍音は短く返事した。 声がかすれそうになった。 ひとりでうだうだ悩みたくないから働くという本音は、母にも口にできなかった。 こんなに喜んでくれているのに。


 がらんとした各部屋を見回った後、二人は前から話し合ってきたことを、改めて決定した。
 この家には引っ越してこられない。 まず広すぎるし、いろんな意味で男の住まいで、女二人には使いにくかった。
 それに何より、相続人として注目されるのを避けたかった。 マスコミに知られて記事なんかにされたら、就職さえ怪しくなる。
「やっぱり売りに出そう」
「そうね。 渡部もわかってくれるでしょう」
 手続きを相談しながら、二人はきちんと戸締りして玄関から出た。
 そのとき、綿のオーバーシャツにサンダルをつっかけた青年が、遠慮がちに表の道から話しかけてきた。
「あの、渡部さんの身内の人ですか?」











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