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表紙

 その114 虚しい日々





 巨額の遺産を受け取ると、出費もその分かさむ。 実の父が信頼していた高槻弁護士に、藍音も様々な手続きを代行してもらうことにした。
 弁護士は前もって大体の費用を示した上で、依頼された仕事を引き受け、任せてもらったことを喜んだ。
「できるだけ迅速に手続きにかかります」
 礼を述べた後、藍音は思い切って言った。
「あの、全部終わってからですが、相談に乗っていただきたいので、時間を取ってもらえますか?」
 弁護士は書類を揃えていた手を休め、眉を上げて藍音を見た。
「わかりました。 では来月にでも?」
「よろしくお願いします」
 なんとなくもう肩の荷を下ろしたような気がして、藍音の声が明るくなった。




 ものうい月日が、ゆっくりと過ぎていった。
 本来なら六月初めは春の名残で、まだまだ美しい季節のはずだが、気候は早く暑さを増し、空でさえ突き抜けた青さを失ってぼやけて見えた。
 藍音は二回ほど未来の職場に行き、早めのオリエンテーションを兼ねて先輩たちと顔合わせした。
 誰に何と言われようと、就職を止める気はまったくなかった。 いくら資金があっても、自分で事業を始めるほどの能力も経験もない。 これまで寸暇を惜しんで勉強とバイトに精を出してきたので、遊びなんか知らないし、そもそも遊び回っている学生たちと気が合わない。
 藍音はここに来て、ずっと律儀に働きつづけている母の気持ちがわかった気がしていた。 母もどちらかというと人見知りだ。 同僚に恵まれている分、会社で忙しくしているほうが気が紛れて楽だったのだろう。
 ストレス解消なら、中学や高校の友達と電話で話すぐらいでいい。 濃い打ち明け話をすると重くなるから、昔から友人とはつかず離れずの関係だった。
 今、藍音が会いたい相手はただ一人。
 だがその唯一の相手は、あれっきり連絡を取ってこなくなった。
 別れろと言われているだろうことは、藍音にも察しがついていた。 無理に会いに行けば、彼が職場にいづらくなるかもしれない。
 藍音はいつも通り、早朝にトビーを連れて散歩していた。 しかし、ジョギングをする加藤の姿は、ただの一度も見かけなかった。
 道筋を変えたんだ──そう99%信じながらも、あと1%の望みを抱いて、藍音は毎朝、静かな道を幾度も振り返った。









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