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 その107 相続の件は





 密葬の前日にあたる木曜日、藍音は電車に乗って、代々木にある高槻〔たかつき〕弁護士の事務所を訪れた。
 それは、大きなビルの七階にあった。 ゆったりと広い待合室には上等な家具が設置されていて、少し落とした照明が落ち着いた雰囲気を作っていた。
 その部屋に藍音が長くいることはなかった。 受け付けの優しげな中年婦人から、すぐ奥の高槻に連絡が入ったのだろう。 右手のドアがパッと開いて、笑顔の弁護士が自ら現われ、笑顔で藍音を招き入れた。


 高槻の用件は、思ったとおり渡部邦浩が一人娘に残した遺産のことだった。
 几帳面な邦浩のことだ。 藍音を認知した書類を、水も漏らさず作り上げていた。 つまり法的に言って、正式な遺産相続人は藍音しかいないというわけだ。
 兄弟への分与はおすそ分けで、少なくても当然だ、というふうに、邦浩は持っていっていた。 後は、承諾および受け取りの書類に藍音の署名を書くだけだった。
 きれいに整った印字の並ぶ紙を前にして、藍音はためらった。 すると、弁護士が励ますように言った。
「独り占めにするような気がするんですね? わかりますよ。 あなたのお母さんも謙虚で、まったく金銭にこだわらない方だそうですね。
 しかし、遺産相続の場合、遠慮は逆に仇になることが多いです。 たとえばあなたが、渡部氏の兄弟にも平等に分けようと思い立ったとします。 するとそれは相続ではなく贈与になってしまい、税金にごっそり持っていかれます。
 その上、ちゃんと分けても疑惑が残るでしょうね。 もらった親戚はあなたを知らないわけで、たぶん信用もしないでしょう。 いい子ぶって、実は裏に隠していると思いがちなんです」


 犯人がちょうど、そんな感じだった──思い起こして、藍音は暗い気持ちになった。
 駒石は、共犯の渡部邦浩が事件の後も財産を増やし、着実に成功していくのを見て、疑心暗鬼になった。 それを渡部の努力と思わず、分け前がまだ残っているはずだと思い込んで、もっともっとと要求した。


 高槻は書類に軽く指を置き、穏やかな声で説得した。
「お気の毒な渡部さんは、目をかけていた妹さんの婿に殺されたんですよ。 実のご兄弟には関係ないとはいえ、皆さん立派に成功しておられます。 時期が時期ですから、兄の財産を貰う権利があるはずだと、大っぴらに言い出すのははばかられるでしょう。
 どうかサインをお願いします。 それが故人の強い遺志ですので」


 藍音は激しく瞬きした。 そのとき、目の前を強い光が走ったような気がした。
 そうだ。 金を払うべき人々は、他にいる。 父と駒石肇が共謀して、出資をつのった大勢の人々が。
 渡部邦浩が異様なほどきちんとしていたことを、藍音は考えた。 彼ならきっと、出資者の名簿を保管していたはずだ。 何でも残して整理しておく人なのだから。









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