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 その103 翌日の電話





 その朝八時、文字通り寝覚めが悪い状態で、藍音はごそごそ起き出して顔を洗い、パンを二枚出してきた。
 レタスとミニトマトを洗い、パンにサラミと溶けるチーズを乗せてレンジに入れ、ピザもどきを作っているところへ、母がガウン姿で出てきた。 休日の朝は急いで着替えずに、のんびりと朝食かブランチを取り、その後ゆっくり風呂につかるのが、母のささやかな贅沢〔ぜいたく〕だった。
 和室を踏み出したところで、母は鼻をうごめかせ、にこっと笑った。
「おいしそうな匂いがする」
「パンのチーズ載せ。 それでいい?」
「いいよ〜、今朝は食欲ある」
「じゃ、一枚じゃ足りなかったかな」
 そう言って、藍音は無理をして笑ってみせた。


 時間はどんどん過ぎていった。 母はどっかりと腰を落ち着けて、会社でのいろんな出来事を語りながら、じれったいほどの速度で楽しみつつ食べていた。
 結局、世間話に付き合った藍音が食事の後片付けを終わるころには、時計は十時を過ぎてしまっていた。 母が鼻歌をくちずさみながら小さなバスタブに湯を入れている音を聞いて、ようやく出かけられるのがわかった。 それで藍音は手当たり次第に小さめのトートバッグを掴み、財布と携帯だけ放り込んで、母に呼びかけた。
「ちょっと買い物に行ってくるね〜。 昨日の用事もあるし」
「自転車で行く?」
「そうする。 天気いいから」
「車に気をつけるのよ〜」
 子供相手のような忠告を背に、藍音は靴を履く時間ももどかしく、玄関を飛び出した。




 大通りを相当遠くまで行って、ようやく藍音は薬屋の角に公衆電話のボックスを見つけ、自転車を降りた。
 加藤の番号を押す指が震えた。 そして、二回のコールで彼のきびきびした声が聞こえてくると、今度は喉が干からびた。
「はい、加藤です」
「ねえ、どうなったの?」
 前もって考えていた言葉は、すべて吹っとんだ。 ただ一つ訊きたいことが、わっと口から出た。
 耐えがたいほどの間が空いた。
 もう切れてしまったんじゃないかと思うほど長い無言の後、加藤は答えた。 低く、苦しげな声で。
「俺が全部話した。 ごめん」
「それで大丈夫? 晶がひどいことにならない?」
「俺はなんともない」
 加藤の声が上ずると同時に、かさかさという雑音が入った。 敏感になっていた藍音の聴覚が、急に不鮮明になった囁き声を鋭く捕らえた。
「彼女なんだろう? 代わって説明しようか?」
「いや、止めてください」
 受話器に手をかぶせてる。
 藍音は反射的に、電話をフックに戻してしまった。









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