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表紙

 その87 間に合わず





 母と娘は、黙って顔を見合わせた。
 長年の沈黙を破って、渡部邦浩は一人娘を家に呼び、親子の名乗りをあげようとしていたのだ。
 もうその機会は、永遠に失われてしまったが。


 なんとも言えず複雑な気持ちで、藍音は一枚目の便箋をテーブルに置き、二枚目に目を通した。


『 小生は今、体力が日に日に失われ、ほとんど外出もできずにいます。 そのため、いつでも家にいて、訪問日を選びません。 承諾してくれるなら、そちらの都合のいい日時を教えてください。


 なお、時間だけはたっぷりあるため、俳句などひねっています。 下手の横好きで、一首書いてみます。


 大空に ミクロな珊瑚の 雲浮かぶ


 それでは、ぜひよろしくお願いいたします。
敬具』





「この手紙、一ヶ月前に出してくれればよかったのにね」
 母が肩を落として言った。
 初めて見る実の父の書体を、藍音はゆっくりともう一度たどった。 縦書きで、字は角張っていて、とても読みやすい。 これなら指示をメモしても、秘書は苦労しなかっただろう。
 だが、それにしても……
「この俳句、上手い?」
 結果的に辞世の句になったにしては、ピンと来ない内容だった。
 生前の渡部を思い出したのか、母は目を赤くしていたが、便箋を読み返して口を小さく尖らせた。
「わからないけど、どうなんだろ」
「私もわかんない。 文学は苦手」
 藍音はゆっくりと便箋を畳んで、元のように封筒に戻した。
「これを警察が読んだら、どう思うかな?」
 母は顎に手を当て、考え込んだ。
「うーん、藍音が渡部と長く会ってなかったというのは証明されるよね。 だけど、死んだ後で届いたっていうのは、仲直りするのに間に合わなかったっていうふうにも考えられてしまう」
「わざわざこっちから持っていくことないか」
「そう……どうだろう……」
 母も大いに迷っていた。













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