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 その80 すれちがい





 母も驚いた様子で、首を伸ばして覗き込んだ。
「そんな物まで入れてた? 私、受け取ったのをザッと袋に放り込んで、それっきりだったから、よく知らないのよ」
「受け取り金額一億四千万円だって」
 金、金、金。 圧倒されるような札束攻撃だ。 藍音は頭を抱えたくなった。
「こんなの警察に見せたら、保険金目当てで殺したと思われる」
「そんなことないわよ。 他の通帳にもっと入ってるんだから。 そっちがすぐ使えるのに」
「もう見たくない」
 つつましく暮らしてきた人間には、どっと疲れる金額だった。 母は困った顔をしたが、構わずに藍音はさっさと袋に入れ直した。
「渡部さんって、ほんとにお金で全部すませようとする人だったみたいね」
 寿美はぎこちなく口ごもった。
「いや…… そうでもなかったのよ。 私が藤咲と別居して、向こうが離婚成立した後、藍音と私を夏休みに旅行に連れていきたいって頼んできたの。
 それがまた贅沢な旅行でね。 ヨーロッパとかアメリカとか」
「大名旅行?」
「そんな感じ。 教育に悪いからって、どうにか普通の旅にランク下げする交渉をしてたときに、渡部が体を壊して、実現しなかったの」


 そう聞いて、藍音はふと寂しさを感じた。
 自分でも思いがけないことだった。 血の繋がった実の『父』との思い出が、彼女にはほとんどない。 たとえ名乗りあえなくても、一度ぐらいじっくりと話す時間が持てたらよかった、と初めて思った。
 そんな藍音の気持ちを鋭く感じ取ったらしい。 母が不意に頭を下げた。
「ごめん」
 みるみる目の縁が赤くなった。
「私はどっちのお父さんも、藍音から取り上げたんだね」
「そんなふうに考えないで」
 藍音はじっとしていられなくなった。 いきなり立ち上がると、しょんぼりと座っている母の背中を抱いた。
「今思ったんだけど、先にこれだけお金もらってたんなら、わざわざ殺しに行く動機なんてなくなったわけでしょ? これ持ってって警察に見せる。 あ、保険証書は隠しとくけど」
 ささやかな冗談に、寿美は泣き笑いの顔になった。
「そうだよね。 動機が遺産だとか認められない恨みとか、藍音を知ってる人間には考えられない疑いかけて。
 そもそも、藍音は渡部の存在さえ知らなかったわけだし」
「そう。 突然警察に言われても、最初は何のことだか全然わからなくて、頭がガーンってなっちゃって」
「ほんとうにごめん……」
「もういいって」
 母を子供のように揺さぶって慰めた。 母の体が普段より小さく見える。 藍音は自分のほうが大人になったような気分に陥った。


 やがて母がポンポンと体を叩きかえし、そっと言った。
「トビーが変な顔して見てるよ」
 そう言われて藍音が目を上げると、ちょうどトビーがカウチに飛び乗って、首をひょいと曲げて二人を見つめていた。
 その様子が疑問符『?』の形に思えて、藍音は思わず吹き出してしまった。















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