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 その77 打ち明ける





 部屋に入り、久しぶりに揃った飼い主たちを大喜びで迎えるトビーを撫でてやってから、藍音は開口一番にずばりと言った。
「私、事件に関係ないから」
 寿美は靴も脱がずにトビーの相手をしていたが、玄関にかがみこんだ姿勢のままで、明確に答えた。
「わかってる。 百パーセント信じてるよ」
 藍音は、母に知られぬよう、ごくゆっくりと震える息を吐いた。 母の言葉には聞き間違いようのない確信があった。 たとえどんなに不利な状況にあっても、そんなことをやる娘じゃない、と。
 藍音の足が、安心感で自然に軽くなった。
「冷凍の海老天あるから、天ぷらうどん作るね。 向こうじゃ食べなかったでしょう、普通の和食は?」
 そう言ってキッチンへ歩いていく藍音の背を、切なげな寿美の視線が追った。 旅から持ち帰った土産の入ったバッグは、まだファスナーを閉めたまま、上がりかまちの片隅に忘れられていた。
「長ネギ、切ろうか?」
 寿美が続いて立ち上がろうとするのを、藍音は早口で止めた。
「いいよ、ネギ切るぐらい簡単。 お母さんは疲れてるんだから、リビングで座ってて」
 湯が沸いて、うどんつゆを入れようとしていたとき、藍音は母の低いすすり泣きを聞いた。


 うどんはすぐできた。 熱々にした海老天を入れ、七味とうがらしを振ってテーブルに持っていくと、寿美は普段着に着替え、もう涙を拭って、できるだけ普通の顔をしようとしていた。
 おいしくできた天ぷらうどんだが、食欲が出なくて、二人ともなかなか箸が進まなかった。
 やがて、寿美がぽつぽつと話し出した。
「結婚前にね、渡部の会社に勤めてたの」
 部下だったのか──よくある話だ、と藍音は思った。
「そのときは何でもなかった。 社長さんだもの、たまに顔を見るぐらいで、何ていうか、雲の上の人だったの。
 それが、結婚して六年経って、街でばったり逢ったのよ。 向こうが気付いて、名前を呼んだの。 私の名前をよ。
 覚えてるなんて夢にも思わなかった。 ただの下っ端事務員だったのに。 なんとなく嬉しくて、食事に付き合った」
 聞きながら、藍音は母の顔に目をやった。 見慣れた顔だし娘だから美醜を超えた愛おしさがあるが、それを割り引いても、確かに母は魅力的だと思った。 美しいというよりは、可愛らしい。 スタイルがほっそりしているわりには、顔立ちが丸みを帯びていて、親しみやすい若々しさがあった。
「話してみたら、もっと驚いた。 いろんな好みがよく似てるの。 それでどんどん親しくなって、何度か食事を一緒にしてる内に、つい悩みを打ち明けてしまって」
「どんな悩み?」
 それまで黙って耳を澄ませていた藍音が、初めて尋ねた。 とたんに母は横に目をそらし、声が不安定になった。
「子供ができないってね…… 私、すごく子供がほしかった。 結婚したらすぐできると思ってたのに、ずっとだめで、病院で調べてもらったけど、夫婦どちらも健康で理由はわからないって言われた。
 そしたら社長……渡部も同じ悩みを抱えてたの。 なんかもう親友みたいな気分になってね、二次会だって言ってアルコールの出る店へ行って、飲んで……」
 声が止まった。
 後は言わなくてもわかった。 雰囲気のある店でカクテルか何か飲み交わして、その後、自然の成り行きで最後まで行ってしまったのだろう。
 お互い子供ができにくいという安心感も手伝って。












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