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表紙

 その75 夜になって





 M署へ連れていかれた寿美は、気分の悪そうな顔色をしていた。
 無理もない。 娘からいきなり、長年の秘密を匂わせる質問をされた直後、問題の男性が殺されたと知ったのだから。
 それに、ようやく慣れない外国旅行から戻ってきて、家でゆっくり骨休めしようと楽しみにしていた矢先だった。
 移動中に日は暮れ、署の建物に入ったときには、すでに真っ暗になっていた。 そこまでほとんど話を交わせなかった寿美と藍音は、署内でも分けられ、別々の部屋に導かれた。


 今度は、藍音のほうにはそれほど鋭い質問は浴びせられなかった。
 代わりに、何人もの刑事が部屋に来ては、調査担当の栗田にメモを渡し、時には短い返事をもらってまだ去って行く、という慌しい雰囲気になった。 寿美の事情聴取が進むにつれて明らかになった事実と、藍音の答えとを擦り合わせて、矛盾点を探そうとしているらしかった。
 藍音は椅子にぽつんと座り、母の身を案じていた。 不幸中の幸いで、犯行日にはグアムに行っていたからよかったが、そうでなければ母だって疑われる立場だ。 現に、藍音との共犯も口にされた。
 ほんとに絶対ありえないって…… ── 藍音は声を大きくして、刑事たちに言ってやりたかった。 暮らしていくお金は、これから就職して自分で稼ぐ。 そのために暑い最中を懸命に就活して回ったんだから。 巨額な遺産を当てにしていたら、そんなエネルギーが出てくるはずがないじゃないか。


 二時間後、母と子は同時に解放され、階段の上で出会った。
 顔を合わせても、すぐに言葉が出てこなかった。 藍音は旅行バッグの大きいほうを持ち上げて、うなだれ気味の母と並んで階段を下りた。
 外は忙しく車が行き交い、バスもひっきりなしに通っていた。 そんな中、藍音は空車のタクシーを見つけて、すぐ呼び止めた。
 ここからなら家までそんなに距離はない。 一刻一秒でも早く戻りたかった。


 車に乗り込んでも、運転手の耳があるから詳しい話はできなかった。 だから藍音は旅行のことを訊いたが、母は上の空でめったに答えず、たまに口を開いてもとんちんかんな答えが返ってきた。
 寿美の動揺は明らかだった。 自分のことを差し置いて、藍音は母が可哀相でならなくなった。 昔に何があったとしても、母はもう罰を受けている。 それをこんな形で、警察に知られなくてはならないなんて。
 世の中は不公平だ、と、藍音は初めて思った。












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