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 その73 今のところ





 捕食者と狙われる者は、お互いの呼吸を鋭く計り合う。
 藍音のほうも、栗田の戦闘意欲がふっと弱まったのを感じ取った。 眠気は去り、意思の力が再び戻ってきた。
「あの」
 できるだけ柔らかい声で、藍音は言ってみた。
「母が午後に空港へ帰ってくるんです。 それに、犬も長いこと放っておけないし」
 栗田は、おとなしく座っているもう一人の刑事にちらりと目をやった。 彼はすぐ立ち上がり、部屋を出て行った。


 若い刑事は三分ほどで戻ってきて、栗田に何事か囁いた。 栗田はうなずき、藍音を睨むようにして告げた。
「帰っていいですよ」
 それから付け加えた。
「今日のところは」
 藍音はすぐ立ち上がったが、筋肉がきしむような気がした。




 昨日よりもっと疲れた。
 また晶に送ってもらえたら、と心から思った。 だがそれは無理だろう。 彼と親しくなったように思われたら、お互いに身の破滅だ。
 内心で溜息をつきながら、藍音はとぼとぼと外に出た。 天気は半曇りになっていて、蒸し暑かった。
 落ち着くために、帰りはバスに乗り継いでいくことにした。 電車より時間と金がかかるが、その分、家のすぐそばまで行ってくれる。 警察署前という停留所から乗って、後部にひっそりと座ると、クッションのきいた座席が安心感を与えてくれた。


 アパートでは、いつものようにトビーが大歓迎してくれた。 無条件に甘えてくれるものが待っているのは、本当に気持ちが安らぐ。 適当に冷蔵庫から残り物を出して食欲を満たした後、藍音は普段よりちょっぴり上等な肉つきの夕食を、トビーに出してやった。
 犬と少し遊んで、彼の欲求不満と自分のストレスをやわらげた後、今度は母を迎えに行くための服を出して、バスルームに入った。
 シャワーを浴び、頭から湯をかけているうちに、涙がにじんできた。 いつまでこんな悪夢が続くのだろう。
 今、藍音がすがれるのは、加藤の強い意志と探索力だけだった。











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