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その72 魔の時間帯
昼近くなっても、藍音の事情聴取は続いていた。
朝が早いから、そろそろ空腹がひどくなってきていた。 そして、手を変え品を変え同じ質問をされつづけるのにも飽き飽きした。
その様子を見すましたのか、栗田の声が微妙に優しくなった。
「みんな君に同情してるよ。 被害者に腹立てる理由は、いくらでもあるもんな。
売り言葉に買い言葉で、我慢してたものが爆発したって、責められないよ。 情状酌量の余地はたっぷりある」
一呼吸置いて、ごくさりげなく、栗田は訊いた。
「瞬間的にカッとなって、何掴んだかわからずに、つい腕を振りあげたんだろう? 過失致死だ。 そうなんだろう?」
魔がさす時間帯というのがあるらしい。
藍音は突然、耐えがたい眠気に襲われた。
そんなことをしなかったのはわかっている。 だけど、うなずいてしまえば質問は終わり。 圧迫から逃れられる。
頭の片隅だけがわずかに現実感を保って、鋭く警告した。 止めて! 取り返しのつかないことになるよ! と。
押しかぶさる重圧をはねのけようと、藍音が椅子の上で身じろぎしたとき、離れたほうの戸口から声がかかった。
「栗田さん、昼の注文しときます?」
彼だ!
矢も盾もたまらず、藍音は振り向いた。 同時に栗田が不満の低い唸り声を立てた。 せっかくいい所だったのにタイミング悪いことしやがって、という怒りが、その唸りには篭もっていた。
「いや、いい」
その声を背景に、藍音は加藤と目を合わせた。
ほんの一瞬、二人は見つめ合った。 彼の顔はいくらか紅潮し、眼はきらきらしていた。 緊張している。 そして、藍音に無言の励ましを伝えようと、全身が張りつめていた。
もしかしたら、尋問を聞いていたのかもしれない。 彼の顔を見たとき、藍音はそう感じた。
「はい」
明るく返事して、加藤は戸口から顔を引っ込めた。
同時に、藍音も姿勢を元に戻して、また栗田と向かい合った。 彼に表情を探られないよう、軽く頬と額をこすってから視線を上げた。
すると、栗田の口が下がっているのがわかった。
彼にとっての好機は去ったのだった。
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