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その65 帰ってきて
止まってからあまり車の中でぐずぐずしているわけにはいかない。 ドアを開きかけたところで、藍音が思いついて小声で呼びかけた。
「公衆電話からかけるのは?」
「ああ! そのほうがいいな」
そっと頷きあった後、藍音は一人でひっそりと車を降り、振り向かずにアパートの敷地に入った。
外廊下を歩いていくと、途中で聞きつけたトビーが上ずった声で吠え出した。 急に連れ去られた女主人にただならぬものを感じていたらしい。 不安そうに声がかすれている。
藍音は急いで鍵を開け、玄関ドアのすぐ内側でそわそわしていたトビーを抱き上げた。
「ごめんね、心配した? こっちもびっくりしたんだよ、ほんとに」
腕にくるんで話しかけているうちに、改めて夕方からの激動がよみがえってきた。
藍音は立っていられなくなって、電気をつけてリビングの小さなソファーに座りこむと、トビーを膝に載せたまま、涙に暮れた。
それでも五分もすると、藍音は自分に活を入れ、首をしゃんと起こして泣き止んだ。
母の背信、信じられない嫌疑、そして、わかったときには死んでいた実の父……。
たった半日で、藍音の人生は音を立てて揺らいだ。
だが、崩れなかった。 恐ろしい闇の中でも、共に支えてくれる人がいたから。
大変なことに巻き込んじゃって、と、頭の奥で良心がうずいた。 でも、加藤の存在は、どんな良心の呵責よりも大きかった。
彼は私を助けられるだろうか。
まだ若い刑事に、あまり発言権はないはずだ。 それは藍音にもわかっていた。 しかし、加藤晶という一人の男性として、彼を全面的に信じていた。 彼ならたとえ力が及ばなくても、全力で助けようとしてくれる。 その誠実さに、藍音は言葉にならないほど慰められていた。
署への帰り道、加藤は居酒屋兼軽食堂に立ち寄って、簡単な食事を済ませた。
着る物に気を遣い、注文する料理に頭を悩ましていた午前中の楽しさが、嘘のようだ。 口に何を入れても、砂のように味気なく、飲み込むのに苦労した。
隣の客が、連れと野球の話をしている。 聞くともなく耳に入れながらも、加藤の心は事件のことで一杯だった。
改めて、これまでわかった事実を頭の中で組み立ててみる。
犯行時刻、ヘルパーを通すために玄関の鍵は開いていた。 閑静な住宅街で人通りは極度に少ないし、近所付き合いも乏しい。 これまで地取りの連中が聞き込んだが、被害者宅を訪れた人間を見たという目撃者は、まだ一人も現われていなかった。
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