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 その59 苦しい再会





 視野の端に浮かぶ藍音の影が、わずかに身動きした。
 山村と加藤のいる後ろの出入り口からは、十メートル以上の距離がある。 それに二人は低い声で話し合っていたので、彼女の耳に届くとは思えなかった。
 それでも藍音が振り返ったときに姿を見られたくなくて、加藤はさりげなく一歩引き、外の壁に体の側面をつけた。
「なんか彼女、背中がげっそりしてますね」
 山村は唸った。
「芝居とは思えないんだよな……。 長年いろんな容疑者を見てるが、どれとも違う」
「いったん帰します?」
 思い切って、加藤は言ってみた。 すると、山村は意外にも、かすかにホッとした表情を見せた。
「そうするか。 明日も休日で、遠慮なく呼び出しできるし」
「僕が送っていきますよ。 そんなに近くじゃないけど、同じ市内なもんで」
「そうなんだって?」
 思い出した様子で、山村は顔を上げて、加藤を肘で軽く突っついた。
「任意かけるとき、君に運転してもらおうと思ったら、どこか行っちゃってたろ」
「いやー、腹が空いて我慢できなくて」
 軽く答えるには忍耐が要った。 これからすぐ起こることを考えると、加藤自身も胃がひっくり返りそうだった。
 それでも、やりとげなければならない。 彼が虚しく待ち、怒りながら探し回っている間、彼女はここで、たった一人で闘っていたのだから。
 この世で最悪の罪、親殺しの嫌疑をかけられて。
──藍音はそんなことしない。 俺の藍音は絶対に!──
 半年近く前から彼女を見つめ続けていた加藤には、誰よりもはっきりとそう信じる権利があった。


 加藤は連絡係として係長のところへ急ぎ、取りあえず今日は参考人を帰すという方針に許可を貰った。
 それから引き返して、広い部屋へ入っていった。 藍音の反応は予測不能だが、自分をここで見てどんなに驚いても、叫んだり泣き出したりする怖れはないだろうと思った。 彼女は物静かで用心深い。
 山村は加藤を見ると、眉を上げて問いの代わりにした。 加藤はすぐ首を動かして、帰宅が許されたことを教えた。
 そこで山村は、椅子に貼り付いたように座っている藍音にむかって、淡々と告げた。
「今日はここで結構です。 お疲れ様でした」


 力の入っていた藍音の肩が、すっと落ちた。 いったいどれだけの緊張に耐えていたのだろう。
 その後姿に近づいていくとき、加藤は心の乱れを制御しきれず、予備の椅子につまずいて、幾つかあるテーブルの一つに手をつきそうになった。
 ガタッという音で、藍音は体を強ばらせて振り返った。
 二人の目が、空中で交わった。
 まだ三メートルほど距離があったが、彼女の瞳に自分の姿が揺れながら映っているのを、加藤は確かに見て取ったと思った。
 藍音の唇が動きかけた。 その声が出る前に、加藤は突風のような勢いで口を切った。
「お宅まで送っていきます。 忘れ物はないですか?」
 二回、ぼんやりとまばたきした後、藍音はテーブルを眺め、それから横の椅子の上に視線を移した。
 その後、のろのろとバッグを手に取ると、彼女は何も言わずに腰を上げて歩き出した。 途中で立っていた加藤とすれ違い、追い越していったが、一度も顔を上げず、言葉も発しなかった。












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