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表紙

 その58 事情を知る





 加藤は、まばたきができなくなった。
 周囲が突然、泥の中に沈み、見つめているきゃしゃな背中だけが灰色の光を放って浮き出した。
 柔らかな髪から覗く首筋、ほっそりした肩の線、わずかに見える頬の輪郭。
 どれも見慣れたものだった。 目新しいのは、体を包んでいる服だけ。 男の眼から見ても、新しく上等そうに思えた。


 圧倒的な衝撃が徐々に薄れ、金縛りが解けてきたとき、激しい太古の衝動が加藤を襲った。 部屋に飛び込んで山村の襟首を捕らえ、一息に殴り倒して、藍音を連れ出そうという。
 それは、腹の底から突き上げてくる理屈を越えた憤怒だった。
 思いとどまれた理由は、只一つ。 部屋には山村だけでなく、笠井も控えていた。


 戸口に寄りかかって、加藤は懸命に荒い息を静めた。
 彼に気付いた山村が、すっと席を立って歩いてきた。 そして、すぐ横につくと、小声で尋ねた。
「どうした?」
 とっさに加藤は、廊下を来たときには考えてもみなかったことを、相手に囁いた。
「彼女、体調崩したんですって? ドクター・ストップがかかったら、やばくないですか?」
 うーん、というような声を漏らすと、山村も加藤の横に並んで壁にもたれた。
「それほどガンガンやった覚えはないんだけどな。 むしろじっくり外堀から埋めてったつもりなんだが、反応が予想と違いすぎる」
「山村さんが落としの名人なのは、みんなよく知ってます」
 加藤は必死だった。 これまでの人生でこんな短時間に頭を絞り、抜け道を探って相手を説得しようとしたことはない。
 困難な、しかも光の見えない隘路〔あいろ〕で、加藤は何とか突破を試みた。
「どこか具合が悪いんじゃないでしょうか。 夏風邪を引いてるとか」
「本人は訴えてない」
「仮病だったら、逆に強調しますよね?」
「まあな」
 あいまいに、山村は相槌を打った。
 室内に視線を向けたい衝動と闘いながら、加藤は尋ねた。
「で、認めました?」
「いや、初めの繰り返し」
 山村はげんなりした口調になった。
「現場に行ったことはないし、どこにあるかも知らないってさ」
 それから、口元を引き締めた。
「ただ、ガイシャと面識があることは認めかけている」













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