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その56 気分が悪い
やがて徐々に胃が縮み、奇妙な具合によじれ出した。
見覚えがある。 信じたくなかったが。
最後に会ったのは、幼稚園の年少組のとき。
顔立ちは記憶の彼方に飛び去っていても、小さな三角形にまとまった額のホクロは特別に印象が強く、はっきりと覚えていた。
『この人は、大おじさんよ』
母はそう、幼い藍音に紹介していた。
写真が手から離れ、テーブルの上に落ちた。
そのまま藍音は両手で顔を覆い、目をつぶった。
信じられない。 考えられない。 十五年もの間、お母さんが私を騙してたなんて……!
息が急速に迫ってきた。 鼻だけでは間に合わない。 口を開けて大きく吸い込もうとした瞬間、突然の吐き気が襲ってきた。
必死で、藍音は口を強く抑えたまま、辺りを見回した。 そして、窓際に小さな花瓶を見つけ、飛びつくように駆け寄って活けてある花を抜くと、中の水に嘔吐した。
胃液が全部搾り出されたような苦さだった。 苦しくて涙が出てきたのが許せずに、藍音は乱暴に手で目からはじき飛ばした。
唇が痙攣した。 悔しくて、やりきれなくて、焼くような怒りが全身を駆けめぐった。
藍音が唐突に席を立ったのを見て、山村もつられて立ち上がったが、彼女が外へ飛び出すのではなく、逆に部屋の奥へ走ったため、中途半端な姿勢で様子を見ていた。
吐き気がおさまるまで待ってから、藍音はしゃがれた声で言った。
「すいません。 洗ってきます。 洗面所はどこですか?」
「いや、いいから座って。 笠井くん、片付けてきて」
メモを取っていた若者は、一瞬天を仰いだが、文句を言わずに花瓶を持って出て行った。
藍音はとぼとぼと元の座席に戻り、バッグからハンカチを出して顔に当てた。
そんな彼女を、数秒間山村は黙って観察していた。 その視線には前のような機械的な冷たさは薄れ、わずかだが、同情に近いものが覗いていた。
やがて咳払いすると、彼は質問を再開した。
「この写真に見覚えがあったみたいだね」
答える元気もなく、藍音は目を閉じた。 山村はいくらか身を乗り出し、優しい声を出した。
「思い出したことを話してくれない? 何でもいいんだ。 どんな小さなことでも」
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