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表紙

 その48 知らない人





 大きめのテーブルに向かい合って座って、テーブルに軽く両手を載せると、山村はさりげなく切り出した。
「念のためですが、あなたは確かに藤咲藍音さんですね?」
「はい」
 藍音は静かに答えた。 質問される前から、もう疲れた気分だった。
「それで、A国立大学の経済学部四年生。 優秀なんだ」
 そう言う顔は真面目だったが、どことなく皮肉な影があるような感じで、藍音は額面どおりに受け取れなかった。
「そんなことないです」
「いやー、優秀ですよ。 就職のほうは?」
「決まりました」
 山村は眉を上げた。
「こんなに早く? 凄いな」
 探るように見つめられて、藍音は視線を相手の顔から胸のあたりに移した。 でも、目を伏せることはしなかった。
 若い男性が入ってきて、山村に8号の封筒を渡した。 蓋を開けて中を覗いた後、何も出さずに山村は藍音に視線を戻した。
「えっと、ここのM市で殺人事件が起きたのはご存知ですね?」
「はい、ニュースで見ましたけど」
 だから何だって言うの。
 内心のいらいらを隠そうとしながら、藍音は表面おだやかに応じた。
 すると、山村はミルクを前にした猫のような表情になった。
「被害者は渡部邦浩さん。 その人のことも、知ってますね?」
「いいえ」
 ついにうんざりした様子が声から隠し切れなくなった。 やや無愛想に答えた後、藍音は顔を上げて山村をまともに見つめた。


 山村は、少し目を大きくして藍音を見返した。
 こう正面切って否定されるとは思っていなかったらしい。
「知らない?」
「ええ」
 藍音には確信を持って言えた。 生まれてからこのかた、渡部という苗字の人とはまったく係わり合いがない。
 似た名前の『渡辺』なら、中学でも高校でも同級にいた。 そして大学にも、渡辺という教授がいる。 だが、苗字が渡部の知り合いはいない。
 椅子の上で藍音は手を膝に押し付けて、いくらか前かがみになり、熱意をこめて言った。
「ほんとに知りません。 私が呼ばれたの、人違いじゃないです?」


 山村の口角が下がった。 彼はテーブルの端に席を取っている笠井のほうに顔を向け、また戻した。
 その態度が、藍音には次の言葉に迷っているように見えた。












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