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 その47 待ちぼうけ





 加藤はもう十五分も、藍音のアパート『河北コーポラス』の通路の壁にもたれて、彼女の帰りを待っていた。
 胸を躍らせて階段を駆け上り、チャイムを鳴らしたとき、彼は藍音がすぐ笑顔でドアを開けるものと信じて、かけらも疑わなかった。
 だから、まったく人の動きがなく、ただトビーと思われる犬の吠え声が聞こえただけだったので、拍子抜けした。
 二度目のチャイムにも反応はなかった。 加藤はそこで初めて、藍音が家を出ているかもしれないと気づいた。
 先にこうらく亭へ出かけたわけないよな、と、彼は自問自答した。 六時半に迎えに行くと、ちゃんと前もって知らせてあるのだから。
 まさか約束を忘れたはずはない。 そこらのうわついたバカ娘ならともかく、藍音はしっかりした真面目な子なんだから。
 きっと何か買い忘れたんだ。
 加藤はそう結論付けた。 どうしても必要な化粧品とか、靴とか。 それで、間に合うと思って外出して、どこかで足止めを食ってるんだ。


 人の出入りのないアパートで、加藤は電話連絡を待ちながら、六時五十分まで待った。
 それから、駅近くのデート場所へ行ってみようと決めた。 もう家へ帰っても遅いと思って、藍音が直接に店へ行くことも考えられる。
 焦りとかすかな怒りを抱いて、加藤は階段を駆け下り、アパートの敷地内に入れておいた車に急いだ。


 乗り込んでエンジンをかけようとすると、勢いで携帯がポケットから飛び出した。
 同時に、メールの受信音がした。 加藤は勢いこんで画面を注視した。
 短いメールは、彼の期待したものではなかった。 M市元社長殺人事件の重要参考人を確保したから、ただちに捜査本部へ戻るようにという内容だった。
 こんなときに限って!
 加藤は携帯を切り、唸りながら車を出して、一目散に駅へ向かった。 食事する時間があるかどうかわからないが、ともかく藍音に直接会って、事情を話さなければならない。
 藍音を失望させると思うと辛かった。 彼は藍音に真剣だった。 付き合い出したのはつい最近でも、その前が長かったのだ。


 加藤は半年以上前から、彼女が気になっていた。
 いや、気になっていたどころじゃない。 あこがれていた。
 薄暗い空が次第に明るさを増していく中で、犬と歩く彼女の髪が後光のように輝くのを眺め、学生らしい地味な服装で身をかがめて、犬の頭を撫でたり抱き上げたりするとき、すらりと美しい脚が布地にくっきりと浮き出るのを目にするたび、口の中が乾いた。
 そして彼女が犬に向かって微笑むとき、ゆるやかに持ち上がる柔らかな唇の動きに、ただ見惚れた。
 












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