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表紙

 その34 仕事と彼女



「邦ちゃんは……そう呼んでたんですけど、邦浩兄さんはいい人です。 高校時代、上の兄はラグビー部で、それなりにやんちゃでしたが、邦ちゃんは理系の科学部で、喧嘩なんかしたことなかったし」
「でも芯はしっかりしてたよな。 僕たちが結婚するとき、この人の親と良樹さんは反対で、ちょっともめたんですよ。 僕が製薬会社のペーペー・サラリーマンだったから。
 そのとき、邦浩さんだけは味方になってくれて、今は稼ぎが少なくても駒石はきっと頑張るし、バックがどうのこうのより気の合った同士で結婚するのが一番だって、説得してくれたんです」
 熱心に語る夫を、麻衣子は腫れた眼で見上げて、かすかに微笑んだ。
「大きな声は出さないんだけれども、ビシッと言って、良樹兄さんも珍しく言い返せなかった。 いざというときに迫力のある人なんです」
 まだ死んだという実感が湧かないらしく、麻衣子は現在形で兄を語っていた。
「邦浩さんはたしか、八年前に離婚なさったんですよね?」
 加藤がメモを見て水を向けると、麻衣子の表情が硬くなった。
「ええ……でも円満離婚です。 静歌〔しずか〕さんは邦浩兄さんの出した慰謝料でエステサロンを開いて、成功してます。 私たちとも付き合いが続いていて、優待券くれるから年末なんかよく行くんですよ。 いつもお客さん多くて、忙しそうで」
 被害者は、同じ静岡出身の女性と職場で知り合って結婚したという。 別れて今は玉井姓に戻り、沼津で開業している元夫人の住所と電話番号を聞いてから、加藤と田辺は駒石邸を後にした。




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 母が旅に出た五月三日の午前中を、藍音はスーパーでのバイトに当てた。
 ただし、昼になるとすぐ店を出て、アパートに戻った。 昼食は家で食べたほうが安上がりだし、トビーも喜ぶから。 休日は犬を預かってくれる家族が遊びに行って留守なので、藍音はトビーをできるだけ一人ぼっちにしておきたくなかった。
 母と二人で作ったシチューの冷凍をチンして、ミルクのカップと共にテーブルに並べ、さてこれから食事というときに、電話が鳴った。
 藍音は一瞬顔をしかめたが、相手が加藤と知ってニパッと笑い、すぐ出た。
「晶?」
「そう」
 息が切れたような声で、加藤が答えた。
「いまバイト中?」
「ううん、家で食事中」
 加藤は申し訳なさそうに唸った。
「ごめん。 そうだよな、十二時二十分だもんな」
「いいよ何でも話して。 料理は温めなおせばいいんだから」
「ほんとに?」
「うん、シチューだから」
 食い気より色気、の段階に、藍音は入り込んでいた。













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