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 その30 二人きりで



 水曜日はバタバタだった。
 明日はいよいよ、母の寿美がグアムへ出発する日だ。 これまで地道に働きつづけてきて、国内旅行でさえめったに行けなかっただけに、母は緊張ぎみで、バッグの中身を何度も点検して入れたり出したりしたあげく、突然、パスポートがないと騒ぎ出した。


 夕食を取った後の九時過ぎだった。 藍音は母を手伝って、ベッドの下まで徹底的に探しまくった。
 一時間以上かかり、二人とも汗だくになった。 そして結局、パスポートはバッグの中にあるとわかった。
 無くさないように、ハンカチ入れの奥にレースのハンカチに挟んで入れておいたのだ。 その特別扱いを、本人はすっかり忘れていた。


「あつーい〜〜! さっきお風呂入ったのに。 もう一回シャワー浴びなきゃ」
「私が先よ。 明日は早いんだから朝シャン無理だもの」
 反省の色も見せずに、母は立ち上がろうとした藍音の肩を押さえつけて、先に風呂場に入り込んでしまった。
「ずるーい」
 もうほんとに余計なことさせて、まだ五十前なのにボケかまさないでよ〜、とぶつぶつ言いながらも、藍音はホッとして立ち上がり、埃だらけの手だけキッチンの流しでごしごし洗った。
 その最中に、電話がかかってきた。
 彼だ!
 藍音は手を拭くのを忘れ、携帯の置いてある寝室へ飛んでいった。


 三日ぶりに聞く加藤の声は、少し元気がなかったが弾んでいた。
「今日は元気? まだメールくれてないね」
「お母さんがね、パスポートなくしちゃったって大騒ぎで、ずっと探してたの」
 自分でも甘い声音になっているのを感じて、藍音は頬が熱くなった。
「疲れてる?」
「ああ、ちょっとだけ。 電話でもわかる?」
「なんとなく。 パスポートって、藍音のお母さんどこか行くの?」
 藍音はハッとして固まった。
「あれ、言ってなかった? 明日から友達とグアムへ行くの」
「新婚旅行みたいだな、グアムって」
 加藤は嬉しそうにフフと笑った。
「そういえばね。 近くても外国だから、本人は喜んでる。 海外旅行デビューってことで」
「いつ帰ってくるって?」
「六日の夜」
 少し口をつぐんでいてから、加藤は声を落とした。
「ふぅん、旅に行っちゃうのか。 ちゃんと紹介してもらってからと思ったんだけど」
 一度言葉を切った後、声が緊張でいくらか硬くなった。
「あのさ、二人で食事しないか? 土曜の夜に」











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