表紙目次文頭前頁次頁
表紙

 その25 幸せ感の中



 その日初めて、藍音はトビーとの散歩でどこを回ったか覚えていなかった。
 ただ犬に導かれるまま機械的に歩き、自動的に後始末したが、頭と心は完全に、さっき起こったことに占領されていた。
 不思議な気持ちだった。 両手を思いっきり伸ばして回りつづけたいのか、それとも家へ飛んで帰って部屋の隅に丸まり、目を閉じてお気に入りのクッションを抱きしめて、彼の感触の残り香にひたっていたいのか。
 きっとその両方なんだ、と藍音は気づいた。 矛盾した衝動が渦になって、幸福感がどんどんふくらんでゆく。 願っていたことが次々と現実になって、怖いぐらいだった。


 散歩を終えて家に帰っても、藍音の微熱はなかなか引かなかった。 母はその放心状態にすぐ気づいたようだが、何も言わないでそっとしておいてくれた。 娘の表情から明るいオーラが感じられたからだろう。
 その日もしっかりバイトが入っていた。 ゴールデンウィーク中は割増料金になるので、藍音はひとまず気持ちを引き締めてスーパーに向かった。 そして、夕方までがんばってミスなく務めた。


 駅からの帰り道、美しい夕日の下を歩きながら、藍音は一度ならず二度まで、携帯を取り出して加藤にかけようとした。
 思いとどまったのは、仕事中で迷惑をかけてはいけないと自分に言い聞かせたためだ。 メールを送ろうかとも思ったが、どう書いたらいいかわからず、情緒的な文章を作るのが苦手なためにためらってしまった。 子供のときから国語より算数のほうが得意だったのだ。
 ああ、声が聞きたいな。
 心からそう思ったものの、藍音は諦めて、相手がかけてくるのを待つことにした。
 きっとかかってくるという予感がした。


 その辛抱は、夜に入ってから報いられた。
 予感が当たり、夕食を母と済ませた八時過ぎに、加藤から連絡があった。 予期したような嬉しい内容ではなかったが。
「ゆっくり話したかったんだけど、ごめん、まだ仕事なんだ」
「忙しいね〜」
 思わずつまらなそうな声が出て、藍音は慌てて続けた。
「仕事いっぱいあるのは、頼られてる証拠なんでしょうけど」
「うーん、そんなことは」
 言いあぐねた後、加藤は声を潜めた。
「明日も忙しくなるかもしれない。 だからその前に、声聞きたかったんだ」
 私も。
 藍音は携帯を強く握りしめた。
「明後日は走れる?」
「たぶん……。 いや、まだわからない」
「できたら会いたい」
「おれも」
 加藤の声が、たまらず大きくなった。











表紙 目次前頁次頁
背景:はながら屋
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送