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 その9 更に親しく


 駆け足を止めた言い訳なのか、彼は傍へ来るとすぐ、低い声で言った。
「やっぱナマってるわ。 もう膝の裏が痛くなった」
 嬉しくて笑いそうになるので、藍音は彼の顔を見ないようにしながら優しく応じた。
「じゃ、少し歩く?」
「そうする」
 すぐ横にいると、彼の体の熱が感じられた。 それと、清潔なボディソープの匂いも。
 走る前にシャワー浴びたんだ、と藍音は気づいた。


 五歩ほど歩いて、不意に彼が言った。
「そうだ、名前言っとかなきゃ。 おれは加藤。 平凡だろ?」
「覚えやすい」
 一息ついてから、藍音も名乗った。
「私は藤咲っていいます。 藤の花が咲くって書くの」
「きれいな苗字だな〜。 それに、加藤より覚えやすい」
「そう?」
 名乗りあったことで、急に親しみが増した。 ワークパンツのポケットに左手の親指を引っ掛けて、加藤が尋ねた。
「下の名前、訊いていいかな?」
「ああ、もちろん」
 藍音は何故か驚いて答えた。
「藍音っていうの。 お母さんがモーツァルトのファンで」
「え?」
 つながりがわからないらしい。 無理もない。 ふつう考えつかないだろう。
「アイネ・クライネ・ナハトムジークって曲が好きでね、それで最初のところを採ったんだけど」
 そこで藍音はクスッと笑った。
「ドイツ語で、ただの一つのっていう意味しかなかったんだって」
 打てば響くように、加藤が答えた。
「クライネのところじゃなくてよかったね」
 思ってもみなかったことを言われて、藍音は一瞬目をしばたたかせた。
「そうか〜、暗い子になっちゃうもんね」
「そんな名前つけないよな」
 他愛もない話をしているうちに、いつもの四つ角を通り過ぎていた。




 翌日も、彼は走った。 これまでにないことだった。
 そして、藍音を見つけるとすぐ止まり、その後は彼女と歩いていった。
「明日まで有給なんだ。 だから暇で」
「仕事人間?」
「そんなんじゃないけど」
 休みに時間をもてあますということは、たぶんデート相手がいないわけだ。 藍音は胸を躍らせた。
「私も今日、授業がない日なの。 だから午前中はバイトに行って、午後は暇」
「ふうん」
 胸を一つ大きくふくらませてから、加藤は言葉を継いだ。
「じゃ、どっかで昼飯食うのはどう?」






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