表紙目次文頭前頁次頁
表紙

 その6 会えなくて


 今のところ、藍音のところは母子家庭と同じだった。 これからもたぶん、ずっとそうだろう。
 もう一生、父には会わなくてもいい、と、最近藍音は思い始めていた。


 その日、大学の授業は午前に二時限、午後に一時限だった。 経済学部の藍音は既に簿記検定二級の資格を取っており、夏休みに、これまで二科目突破している税理士試験の残り課目を猛勉して、秋の本番に備える心積もりでいた。 だから春のうちに大手の税理事務所に就職が内定したのは、本当にホッとする事態だった。
 固い仕事がいい、と母は言ったし、藍音自身もそう思っていた。 真面目に頑張れば、一人でもしっかり生きていける。 母がそのいい手本だ。


 でも午後の授業中、藍音が頭に浮かべていたのは、解き終えた演習問題の解説ではなく、腕を握った大きな手の感触と、不意に雲の切れ目から姿を見せた太陽のような笑顔だった。 今朝から胸に居座ったこの感覚は、遠くから見ているだけだった小学校時代の憧れや、同じ部活にいるのが楽しかった高一のふんわりした幸せ感とは、まるで違っていた。
 それは、何かが迫ってきているという感覚だった。 わくわくすると同時に、重く胸を押されるような何かが。
 彼は、明らかに大人だ。 きちんとしていて、ジョギングを長く続けるという意志の強い人だ。
 そして、トビーを撫でながら見上げた彼の目には、熱が宿っていた。 男が女に抱く情熱の輝きが。
 彼は私と付き合いたいと思っている。
 それがどの程度のものかはまだわからないが、ともかく関心を持っているのは確かなように見えた。
 うっかりその先を考えそうになって、藍音は急いで瞬きし、我に返った。 勝手に自分だけ暴走したってどうしようもない。 恋は一人ではできないんだ。
 ノートに講義内容を走り書きでメモしながら、藍音は願った。 彼の好意が本物で、真剣に想ってくれますように。 そうしてくれたら、私も彼を大事にします。 きっとそうしますから。




 翌日は朝から雨だった。 彼は毎日走る人ではないので、天気も悪いし、逢えなくても気にならなかった。
 次の日は曇りだったが、やはり彼は現われなかった。 藍音はちょっとがっかりして、明日は来てくれるといいなと思った。


 三日後、そして四日後も、彼は姿を見せなかった。
 こうなると気持ちがしぼむ。 道で出会うようになってから、三日以上顔を見ないことは、これまでなかったからだ。
 話を交わしたのがまずかったかな、うざくなって走るコースを換えたんじゃないかな、まで気を回してしまった。


 六日が過ぎた。
 もうすっかり諦めて、藍音は白々とした朝の風の中を、トビーと共に出発した。 昨日から犬のリードを新品に替えている。 ゲン直しのつもりだった。
 もうどこかですれ違っても、知らん顔してやるんだから、と気持ちに鎧を着ていると、いつもの四つ角で、不意に声をかけられた。
「やあ!」
 明るい声だった。 それに、少し息が切れていた。








表紙 目次前頁次頁
背景:はながら屋
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送