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 その5 辛い思い出


「これで安心して、学生生活最後の一年を楽しく過ごせるね。 語学学校にも通うんでしょ?」
「と思ったけど、ネットの通信教育にしようかなって考えてるの。 電車代がバカにならないから」
「そうか……」
 母はちょっと顔をしかめた。
「交通費ぐらいポンと出してあげたいんだけどね。 今は不景気で、流通のほうにしわ寄せが来てるでしょ。 値引き合戦のとばっちりで、働いた分だけ給料が上がるなんてことなくて」
「わかってる」
 それ以上母を落ち込ませたくなくて、藍音は急いで言った。
「大学まで行かせてくれたってだけで感謝してる。 それに、アパートだけど家から通えるっていうのがありがたいし」
「効いたよね、自宅通勤?」
 母の顔にようやく笑いが戻った。
「それに、がんばって離婚承知しなかったことも。 親が揃ってるほうが強みだよ、やっぱり」
 そうだよね、たぶん。
 苦労して書いたエントリーシートを思い出しながら、藍音は胸に鈍い痛みが走るのを押し殺した。


 四歳くらいまで、藍音は父の秘蔵っ子だった。 休みにはしょっちゅう遊園地や催し物に連れていってもらって、家族で撮影したホームビデオが山のようにある。
 それが、五歳になる直前からぴたりと止んだ。 父の帰りが急に遅くなり、母と怒鳴りあうか口もきかずに背中を向け合っているかの、どちらかしかなくなった。
 不仲が決定的になったのは、父の単身赴任が決まったときだった。 週末に車が来て、知らない男たちが声を掛け合いながらダンボール箱や大型家具を担ぎ出していった。 そして翌朝、藍音が起きると、母が強ばった青い顔で枕元に座りこんでいて、目が合うとかすれた声で言った。
「このマンション、売るんだって。 だから、他に住むところ見つけないと」


 今考えると、まだ若かった母がよく突然の苦境を乗り切ったものだと思える。 母は九州の実家に電話をかけ、新しく見つけたアパートの敷金だけ送ってもらった。 それから嘆く暇もなく働きはじめ、藍音は保育所に預けられた。
 人見知りしないし、じれたりめそめそしたりもしない少女だった。 だから先生方にかわいがられ、保育所の居心地はよかった。
 ただ、他の子のように男の先生に甘えることはできなかった。 なついても、父のように掌を返して冷たくなるかもしれない。 そういう怖れが、心のどこかに巣食っていた。


 マンションを出て行った日から、藍音は一度も父に会っていない。 今でも赴任先に住んでいるのかどうかさえ知らない。 母は知っているらしいが、訊いたことはなかった。
 ただ、別れた原因が、よくある女性関係でないことはうすうすわかった。 父が再婚しようとしないからだ。 するためにはどうしたって離婚が必要だが、別居のときに持ち出された離婚話は、これだけ年月が経った後でもそのままで、だらだらと持ち越されていた。








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