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 その4 小犬のヒゲ


 表玄関脇の水道でトビーの足を洗ってから、抱いて入った。 元はペット禁止のアパートだったが、築二十五年と古くなってきて賃貸条件が悪くなったため、客寄せ用に五年前から一匹だけなら飼ってもいいことになっていた。
 世帯数は八。 一応満室で、一区画は五畳の和室と七畳のリビング・ダイニング、それに一畳半の風呂場兼トイレがついているという、家族用としてはささやかな間取りだった。
 この中古アパートに、藍音は九年ちょっと住んでいる。 名目上の世帯主は父だが、実際はずっと母との二人暮しだった。


 その部屋は、階段を上がってすぐ右にあった。
 小さな玄関に入ると、いつものように母が朝食の食器を並べているのが見えた。 藍音もすぐ、手を洗って手伝った。
「今日は遅くなるかもしれない」
 母は冷蔵庫へ行き、納豆のパックを取り出しながら言った。
「ゴールデンウィーク前だから?」
「そう。 いろんな店が休むからね、その前に注文済ませてしまおうって人が多い」
 母は運送会社の事務をしている。 父が去ってから、つてを頼って始めた仕事で、すでに十年以上勤めていた。
「私も今日は遅いんだ」
「バイト?」
「そう。 二人とも出ちゃうと、トビーが可哀相だね。 保井〔やすい〕さんに預かってもらおうか?」
 箸を並べる手を止めて、母は思案する表情になった。
「いいけど、あそこの子かわいがりすぎていじっちゃうんじゃない?」
「え、どうして?」
「だって、戻ってくるといつもトビーのヒゲがなくなってるのよ」
 藍音は笑い出した。
「ほんと? 気がつかなかった」
「まあ犬だからね、ヒゲがなくても猫ほど困らないでしょうけど」
 そこで吸い物を注ぐ手がまた停止した。
「犬のヒゲって何のためにあるのかしら」
「さあ」
「あんた大学生でしょ? わかんないの?」
「そんな〜。 生物学部じゃないし、もしかしてそうでも知らないんじゃないの〜?」
 藍音は閉口した。 
 すると母は悟ったような顔をした。
「まあ、そんな程度でも就職できてよかったね」
 ここは怒るべきところかもしれないが、藍音自身もあまりに順調に決まったため半信半疑なぐらいだったので、思わずうなずいた。
「そうね、ほんとに」
 四年生になったばかりの四月終わりに、もう内定が出たというのは、何といっても最高にほっとする結果だった。









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