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その3 未来に予感
尻尾を盛んに振っているトビーに目を落とすと、彼はいぶかしげに呟いた。
「この犬、前は男の人が散歩行ってた?」
つられて、藍音も犬に目をやった。
「そう。 中谷さんっていう同じアパートの人。 肝炎で亡くなったんです」
「そうか〜」
男性はまた屈みこみ、トビーの胸をさすった。
「気の毒だったな。 でもよかったな、いい人に貰ってもらって」
いい人? 外交辞令とわかっていても嬉しくて、藍音はうっすらと頬を染めた。
「犬、好きですか?」
彼はトビーに視線を置いたまま、ゆっくり立ち上がった。
「うん。 子供のときに飼ってた」
そうだろうと思った。 犬の扱いに慣れているようだから。 犬は上から手が下りてくるのが嫌いなので、噛みつく神経質なタイプでなければ、胸や顎を撫でてやるほうが喜ぶのだ。
それから彼は腕時計を見て、慌てたようにシャツの裾を整えた。
「おっと、もう行かないと」
藍音は改めて礼を言った。
「さっきはありがとうございました」
彼は再びにっこり笑い、軽く頭を下げて走り出した。
その後姿が間もなく次の四つ角に吸い込まれていくのを、藍音は黙って見送った。
それから一人と一匹は、道をまっすぐ通り抜けていった先にある小さな公園へ行った。 ロングリードにしてしばらく自由に歩き回らせた後、今度は柔らかいボールを投げてやっていると、リズミカルな足音がまた聞こえてきて、彼が戻ってきたのがわかった。
藍音は急いで振り返った。 すると、走りながら彼のほうもこっちを見たので、肩のあたりまで手を持っていって小さく振った。
彼も片手を上げて挨拶して、走り去っていった。
いつになく爽やかな気持ちで、藍音は帰路に着いた。
まだお互い名前も知らないが、はじめて話ができた。 そして、彼が気持ちのいい声をしていること、犬好きだし、たぶん優しい性格だということがわかった。
好きになっちゃうかも、と、不意に感じた。 そういう気持ちには、たまに予感に似たものがあるらしい。 嬉しくなったところで、思いついた。 一人で勝手に盛り上がってるけど、彼がもう結婚か、婚約なんかしてたら、どうする?
すっかり運動が足りて、早く帰って朝御飯を食べたいトビーが、ぐんぐん引っ張る。 つられて足を速くしながら、藍音はさっき見た彼の手を思い出そうとした。
たしか、指輪は一つも嵌めていなかった気がする。 たぶん結婚はしていない。
手の連想で、しっかりと体を挟みこんだ筋肉質の腕を思い出した。 まだ今でも包みこまれているような、なまなましい印象だった。
今度会ったら何て言おう。
既に、そんなことまで頭をよぎった。
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