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表紙

火の雫  99
 息子の恋が破れたことを知っても、静の絵津に対する態度は変わらなかった。 夜の商売をしているから、男女の機微には詳しいのだろう。
 ただ、五日ほど経ち、真路が絵津を送ってマンションの前まで来たときに、部屋で待ち受けていて、一度だけ寂しそうに言った。
「文句言うわけじゃないんだけどね、絵津ちゃんがいたから優はしょっちゅう来てくれてたでしょう? これからは回数減るだろうな」
 それどころか、当分来ないんじゃないかと思うと、絵津は首が縮む思いだった。


 しかし、意外なことに、大崎はほぼ毎週、静に電話してきた。 マンションには訪ねてこなくなったが、外で会ったりしているらしい。 絵津がいたせいで、母と息子は交流を深め、互いに話が合うことに気付いたようだった。


「ほんとは優くんってマザコンなんじゃないの?」
 久しぶりに待ち合わせて、秋物の服を買いに行ったとき、将美がそう言った。 無神経な言葉に、絵津は口を尖らせた。
「そんなんじゃないよ。 将来のこととか、女の人との付き合い方とか、他の人に話せないこと相談してるらしい。 親だもん、普通でしょう?」
 とたんに将美は落ち着かなくなった。 手に取っていたシルクのブラウスをすべり落とし、声を震わせた。
「絵津は相談しないね。 学校の話も、か、彼氏の話も、全然」
 明るく振舞う母が、内心の傷を見せたのは、それが初めてだった。
 絵津は、ニットのワンピースを選ぶ手を止め、考えた。 真路との仲が戻ったことを、母は静から聞いて知っているはずだ。 でも、これまでまったく触れなかった。
 話すチャンスだろう、と絵津は決めた。 黙って付き合っていると、後で困ることになる。 ターコイズブルーのワンピを選んだ後、レジへ持っていく前に、絵津は思い切って声に出した。
「私ね」
「うん?」
 母はすぐ応じて、真剣な目を上げた。
「私、進路決めた。 できたら、歯科衛生士の学校へ行きたいの」


 一瞬の後で、将美の手が忙しく動き出した。 いろんな服の上をさまよっているが、よく見えていない感じだった。
「それって、あの子と一緒に働くってことだよね」
 あの子とは誰か、聞かないでもお互いわかった。
「そう。 結婚しようって。 ね、承諾書書いてくれるでしょう?」
「なに、承諾書って?」
「未成年だから、親の許可がいるの」
 将美は激しく目をしばたたいた。
「結婚って、まだ早すぎる!」
「十八はガキじゃないよ」
 わざと少し乱暴に、絵津は答えた。


 服を買った後、二人は道を歩きながら話を続けた。
「真路がね」
 将美は目を逸らした。 硬い態度にも、絵津はめげなかった。
「真路が、ずっと前から私にいろいろくれたって言ってるの。 好きなグループのチケットとか、ポストに入れたって」
 まだ将美は何も言わない。 絵津は母の腕を掴んで揺さぶりたくなった。
「母さん捨てたでしょ」
 はっきり言われて、将美はようやく口を開いた。
「雄策が代理でやらせてると思ったのよ」
 やっぱり。 絵津は唇を噛んだが、前ほど怒りは沸いてこなかった。 母が逃げず、自分のしたことを認めたからだ。
「加賀谷さんは関係ないよ。 真路はたぶん、初めは私を妹みたいに感じてたんだと思う。 でも、気がついたら本気になってたんだって。 そういうこと、あるんじゃない?」
「あんたはどう思うの。 彼の本心だと思う?」
「思うよ」
 心から、絵津はそう言いきることができた。
 そんな自分が、すごく幸せだった。


 その場は結論が出ないまま、親子は別れた。
 だが三日後、将美から電話があった。
 開口一番、将美は言った。
「ごめん、母さんが間違ってた」


 それからは、もつれた糸がほぐれるように、すべてがうまく行くようになった。





―☆―




 三月五日、絵津の高校で卒業式が行なわれた。
 ピンクの梅が淡い雲のように広がって咲く校庭に、絵津は出席してくれた家族と知人達を呼び集めた。
 母の将美、親友の木実と奈々歌、細川静も姿を見せた。
 そして、真路も。 式には出なかったが、なんと加賀谷雄策医師まで、後から現れた。
 久しぶりに顔を合わせた雄策と将美は、ぎこちなく挨拶を交わした。 二言三言でも、口をきいたというだけで大きな進展と言えた。


 真路が上等なデジタルカメラに三脚までつけて持ってきていて、梅の木の前にセットして記念写真を撮った。 ガヤガヤと並ぶ一同は、来客の中で最も賑やかで、楽しそうだった。
「こっち見てくださーい」
 真路がタイマーを押して駆け戻ってくる間、絵津はどんなポーズを取ろうか考えていた。 だが、彼が横に身を屈めたとたん、全部吹っ飛んだ。 そして、ただ笑顔になった。
 春先だけど、夏の太陽のような眩しい笑顔に。


「もうすぐですよ。 はいチーズ」
「ピースピース!」
 五月には結婚式が待っている。 幸せをまとめて大きな花束にして、ドンと胸に放り込まれた気分だった。
 ジーッという音が止み、カチッとシャッターが切れた。 じっと息を潜めていた一同が生き返り、陽気にしゃべり出した。
「いやー、いい式でしたね〜」
「うちの子のときは入口に風船で作ったアーチがあって、みんなくぐったんですよ。 今どきはいろんなアイデアがあるもんですね」
 絵津は、卒業証書の筒を車に入れ、代わりに紙袋を取り出した。
「ちょっと待っててね。 友達にお別れ言ってくるから」
 真路が、不意に小鬼のような笑みを浮かべると、袋をさらった。
「ついてくよ。 荷物持ちで」
「えー?」
「見せつけてやろうぜ。 言っちゃいなよ、これが私の婿さんでーすって」
「えー〜っ?」
 絵津の声が上ずった。 真路はかまわず、ぐいぐいと背中を押して、絵津を歩かせた。
「さあ、行った行った。 善は急げ〜」
 もつれるようにして遠ざかっていく二人を、将美と雄策が見送っていた。 その距離は三メートルほど離れていたが、冷たいわだかまりはもうなかった。




 やがて本格的な春になる。 そしてまた夏が来る。 真路と絵津の大好きな夏が。
 明るい運動場には、あちこちに人の群れができていた。 絵津は大きく息を吸い込み、こちらを向いた女子の一群に手を振った。
 幸せだった。 進路が見つかったことが。 すぐ横に、暖かい大きな体のあることが。
 もう一人じゃないんだ。
 それが、何よりも嬉しかった。





〔完〕






―☆―



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