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表紙

火の雫  1
 千葉には高い山がない。
 といっても、山といえる丘陵地はあちこちにあるし、温泉もたくさんある。
 絵津〔えつ〕が育ったのは、そういう山に囲まれた狭い谷あいの町だった。
 ただし、西側は大きく海が広がっている。 東京湾の入口にあたる部分で、古くから開けた漁港が二つあり、漁船が始終行き来していた。


 その年の五月は、ゴールデンウィークが終わってからしばらく、晴天の日が続いていた。
 学校から三時半に帰ってきた後、絵津は茶の間に坐り込み、コンビニで買ったドーナツをかじりながら漢字の宿題の空欄埋めをしていた。
 隣りの部屋でブローをしているドライヤーの音がうるさい。 母の将美〔まさみ〕が仕事に出る支度をしているのだ。 開店は五時……
 カランカランと小さな鐘が鳴って、玄関の引き戸が開いた。
 絵津の家は築三十年の平屋で、家賃が安いから借りている。 その分、家の造りは旧式だ。 二間続きの和室と薄暗い台所。 東の裏庭を潰して後から付け足した洗面所とバス・トイレが、不格好に収まっていた。
 小さな玄関で、大きな声がした。
「将美! いるんか?」
 とたんに絵津は勉強道具をランドセルに流し入れ、蓋を閉じて、寝室にしている六畳の隅に置かれた勉強机の下に押し込んだ。
 化粧用のケープを肩から外しながら、将美があたふたと洗面所から出てきた。
「はーい、今行く!」
 絵津の横を通るとき、念入りに銀色のマニュキュアをした指が、五百円玉二枚をポンと投げてよこした。
「これで一時間ぐらい遊んできなさい。 鍵、持って出るんよ。 母さん店に行くとき全部戸締まりするからね」
「うん」
 口の中で答えると、絵津はジーンズの尻ポケットに鍵と硬貨を入れ、台所口から道に出た。


 四時少し前。 まだ外は明るく、照りつける太陽が暑いほどだった。 右へ二百メートルも歩けば商店街で、ゲームセンターに友達がたむろしているのはわかっている。 女の子だけなら行ってもいいけど、男子がいるにきまってるから。
 男の子って、どうしてあんなにロコツなんだろう。 特に岩居〔いわい〕のガキが容赦なかった。
「おまえの母ちゃん、また男連れこんでるのか?」
 父親そっくりの口調が子供の顔から出ると、アンバランスな嫌らしさがひりひりと胸に染みた。
 松山のおじさん、母さんを連れ出してくれればいいのに、と、いつも思う。 ラブホに行けよ、ケチおやじ。


 いったん右に出かかったスニーカーを左に向けて、絵津はうつむき加減に歩き始めた。
 結局、行き場はいつもの通り、海しかなかった。 五百円玉は溜まる一方だ。 今度貯金箱でも買うか、とぼんやり思っているうちに、弥生橋〔やよいばし〕まで来た。
 下校の中学生たちが、自転車で渡っていた。 彼らは冗談で、弥生を「やおい」と呼んでいる。 何の変わり映えもしないコンクリートの橋だが、仇名のおかげで妙な人気があり、待ち合わせによく使われていた。
 絵津は、橋の十五メートルほど手前で梓川〔あずさがわ〕の柵に寄りかかり、ポケットから風船ガムを出して口に入れた。 噛みながら二分ほど川を見ていると、運よく目的のものが平らな水面に揺れて映った。
 絵津は体の向きを変え、顎を動かしたまま柵に背中をもたれさせて、さりげなく当りを見回すようにすると、橋の上を探った。
 そこには、自転車を止めた男の子がいた。 いつも帰りがけ「やおい橋」に着くと、彼はいったん停まり、友達の子が追いつくのを待つのだ。 同じスピードで揃って来ればいいものを、どうしても全速力で坂を下ってきたいらしかった。
 今、彼はサドルに斜め坐りして、絵津に横顔を見せていた。 地面につけている片足から、まっすぐ伸びた背中まで、若いしなやかな体がピンと弓を張ったように緊張したラインを描く。 わずか数秒の静止した時間だった。
 間もなく、友達の自転車二台が追いついてきた。
「おうよ。 相変わらず飛ばすなー」
「やっべー、俺プリントをロッカーに忘れちった。 なあ真路〔しんじ〕、コピーさせて」
 真路と呼ばれた男の子は、ペダルに両足を載せて立ち上がり、自転車を動かさずにバランスを取った。
「掃除当番一回」
「マジかよ」
 後から来た子はブツブツ言ったが、それでも商談成立で、軽くハイタッチすると、真路のチャリを囲んで、あっという間に走り去った。

 


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