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表紙

火の雫  94
 うまく説明できないことは、この世にいっぱいある。
 雄策も絵津に、彼女が生まれ出たいきさつを改めて話そうとはしなかった。 この家で顔を合わせたのが、やっと三度目だから、まだ立ち入った話のできる気分ではなかったのかもしれない。
 ともかく、雄策は二人が仲よく一緒に現れたことに大満足の様子で、絵津が真路に連れられて居間に上がるのを笑顔で見届けた後、そっと姿を消した。


「なんで親父、いまごろ家にいたのかな?」
 真路は、居間のカーテンを開けながら首をひねった。
「定休日じゃないのに」
「忘れ物取りに来たとか?」
「あー、そうかも」
 そう言ってエアコンのスイッチをパチンと入れると、すぐに部屋は心地よく冷えてきた。
「なんか予感したのかな。 勘が鋭いんだ、うちの親父……いや、二人の親父だった」
 絵津は困って、半端な笑みを浮かべた。
 たしかに、絵津には父親が二人いる。 真路の言った意味とは違うけど。
 すぐに絵津の傍に戻ってくると、真路は彼女に身を寄せ、頭のてっぺんに唇をつけた。
「今ごろになって心臓がバクバクしてきた」
 温かい息が、頭皮をかすめた。
「卒業するまで待てないぞ、きっと。 歯学科は長いんだ。 あと三年もある」
 囁き声が、せっぱつまってきた。
「結婚しよう。 な? 絵津が高校出たら、すぐ」


 それは、以前に結婚を持ち出したときの醒めた口調ではなかった。 真路は本気だった。 前から真剣だったのかもしれないが、今は激しい熱がこもっていた。
 絵津は、もぞもぞと手を動かして、真路の体を引き寄せた。
「うん」
 小さい声だったのに、ぎょっとするほど耳に響いた。
 そして、はっきりと悟った。
――私は、真路の特別な人になるんだ。 他の誰かじゃなく、この私が――
 さらっと涼風のたちこめる、静かな部屋で、絵津は幸福に融けてしまいそうになった。
「なんか……すごくうれしい」
「俺もだ」
 真路が、びっくりしたように呟いた。









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