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表紙

火の雫  89
 二人とも、口を開くことを忘れた。
 人通りのある道に立っていることも意識しなくなった。


 やがてカチャカチャと、自転車を起こす軽い音がして、真路がぼんやりと顔を上げた。
 木実が、自分のチャリを道路の脇に置き、絵津のを立てていた。
 真路と視線が合うと、木実は冷ややかな声で言った。
「今ごろ来たんだ」


 真路は、絵津の体から手を離し、改めて肘をそっと握り直した。 そして、穏やかに答えた。
「いろんなしがらみがあったから」
「好きなら突っ走れよ」
 男の子のように言い切ると、木実は自転車を押してきて、絵津の横に止めた。
「突っ走ったけど、遅かったんだ」
 木実に向ける真路の眼差しには、意外にも親しみが感じられた。
「連れていかせないようにしようと思ったが、サッと車で通り過ぎちゃって」
 はっとなって、絵津はすぐ横にある真路の顔を見上げた。
「道にいたの? あのとき……」
 唇を引き込むように噛んで、真路は頷いた。
 そういえば…… 絵津は思い出した。 八王子のマンションから去るとき、運転席でバックミラーに目をやった大崎が、何度も見直していたことを。
 振り返ればよかった。 あんなに気持ちが崩れていなければ、ちらっとでも見てみたのに。
 そうしたら、きっと車を止めてもらって、引き返していたのに!


 木実は、率直な視線を真路に据えた。
「もう放り出さないって誓う?」
 真路の肩が動いた。
「放り出してなんか……」
「放り出したよ」
 木実は断固として繰り返した。
「よさげなこと言って、そのまま放っとく。 それ何回繰り返した?
 他の子なら、そうやって興味引っぱるのもいいよ。 でも、絵津はちがう。 絵津にはしっかりした土台が必要なの。 だって、両親ともちゃんとした親してないんだもの。
 絵津の気持ち守れる? ぐらぐらしない?」
「俺さ」
 真路の声に力が入って、太くなった。
「逆なんだ。 中学のときから、付き合うのは絵津と決めてたもんで、他の子は目に入らなかった。 遊びで誘われたことはあるけど、相手もぜんぜん本気じゃなくて。
 絵津がいなくなってから、初めて回りを見て、まじめに付き合える人を探した。 でも、どうやっても途中で疲れるんだ。 申し訳ないと思うけど、まったく盛り上がらなくなって」
 真路の視線が、横に逸れた。
「ちゃんと謝って別れてる。 なかなか許してもらえないけど。 身勝手だとわかってるから、すごく落ち込む。 でも、別れないともっと落ち込むんだ」
 視線が、次第に空へ向かった。
「何度も言われた。 すぐ飽きるバカって。 でも俺、絵津に飽きたことないんだ」








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