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表紙

火の雫  88
 本心……? 私の、本心?
 不意に火傷しそうなものが湧きあがってきて、鼻がツーンと痛くなった。
 絵津の自転車が止まったのに気付いて、真路は言葉を切るのをやめた。
「海で声かけたのだって、祥子〔しょうこ〕が言ったからなんだ。 あの子が見てるよ、あれぜったい真路のこと見てるって。 だから、嘘だろうって思いながら確かめに行った」


 浜辺に溜まって談笑していた若者たちを、絵津は目の前に思い浮かべた。 彼らは、とても世慣れて見えた。 真夏の光に取り囲まれて、黄金色に輝いていた……。
 絵津は半分振り返ったが、真路の顔をまともに見る勇気がなかった。 それで、ほとんど囁き声で尋ねた。
「八王子……出てかないほうが、よかった……?」
 ほとんど間をおかずに、真路は答えた。 ひどく寂しげな、力のない声で。
「うん」


 絵津の手が、自転車から離れた。
 支えを失ったアルミの車体が、ガチャンと路面にぶつかった。 だが絵津は、頭に血の上った状態で、何の音も耳に入らなかった。
 振り向くと、さっき残していった位置に、真路がいた。 絵津は彼の目を探し、勇気をふりしぼって見つめた。 そして、悟った。
 この顔だ。 熱と不安と憧れが、かげろうのように揺らいでいる、この表情。
 今まで、大崎の顔にしか見たことのない、特別な気持ちの表れだった。
 愛されているんだ、と、絵津は初めて実感した。 そのとたん、全身が燃えて熱くなり、蝋燭のように融けはじめた。
 頼りなくなった足を踏みしめて、絵津は真路に歩み寄った。
 すぐ前に行くと、右手で彼の腕に触れ、なにか言おうとしたが、声にならなかった。


 もう限界だ、と絵津は悟った。
 母や、静や大崎に気を遣い、波風の立たない人生を平和に送ろうと思ったけど、そっちのほうが幸せになるかもしれないけど、やっぱり無理だ。
 絵津は無言で首を垂れ、額を真路の肩にくっつけて、瞼を閉じた。


 そのまま、時が過ぎた。
 永遠に思えたが、たぶん三十秒くらいだったろう。
 真路の腕が上がり、絵津の背中を抱いた。








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