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表紙

火の雫  87
「そうは、言わないと思う、まだ……」
 答えながら、絵津は自分がじれったかった。 相手が真路だと、どうしてこうはっきりしなくなってしまうのだろう。


 会話をするには少し離れすぎだと思ったらしい。 真路がぎこちなく歩いてきて、自転車の前輪の斜め前に立った。
 絵津は一瞬、身を硬くした。 だが、すぐ気付いた。 あの重苦しさが、消えている。
 前は、真路が傍に来ると圧倒された。 逃げたくなったことさえあった。 しかし、初めて喧嘩して別れ、心の距離が離れた今になって、絵津は真路にこれまでにない親しみと愛しさを感じた。


 あれは、嘘の混じった付き合いだったからだ、と絵津は気付いた。 圧迫感を感じたのは、真路が無理をしていたからだ。
 もう彼は、芝居をしていなかった。 絵津は、肌でそれを感じた。
 話そうとして、真路は顔をしかめ、かすかに咳払いした。
「親父に、追い出されかけた」
 絵津はぎょっとなった。
「えぇー?」
「余計なことするな、こじれるばかりだろうって、ガンガン怒鳴られた」
 呟くように話す真路の視線は、自転車の前篭にジッと据えられていた。
「最後に、絵津と同じこと言ってた。 好きな女を見つけろって」
 絵津は小さく頷き、目をそらした。 突き放されたような気持ちになったのを知られたくなかった。
 普段の生活に戻ったのを後悔してはいない。 だが、夢が消えたのは事実だった。
 平凡な小学生だったあの日、不意に親身になって庇ってくれた上級生の男の子は、もう夢の存在ではなく、シャボン玉になってしまった。


 目が醒めたように、絵津は後ろを振り返った。
「あーっと、アイスクリーム買いに行かないと」
 今度は、真路が口を閉じてうなずいた。
「じゃ、元気で」
 他に挨拶のことばを思いつかなかったので、絵津はあやふやにそう言って、自転車の向きを変えた。
 足を踏み出したところで、背後から声が聞こえた。
「俺、傲慢じゃなかったんだよ」
 絵津は目を見開いた。 止まろうと思ったが、足が勝手に前へ動いた。
「自信がなかったんだ。 勝手にさ、一方的に追っかけてたから、絵津がいつ本心を出すか、怖くて」








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