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表紙

火の雫  86
 一瞬、鼓動が止まった。
 それから、胸を突き上げるほどドキドキし始めた。


 絵津の心臓に異変が起きている間も、自転車はひとりでに角を回り、斜め向かいのパーラーに近付いた。 木実は前を走っていたため何も気付かず、もう自転車を降りて、買い物の列に加わっていた。
 だが、真路は絵津に気付いた。 けっこう距離は離れていたが、彼が瞬時に絵津を認めたのは、すぐわかった。
 不意に口の端が落ち、目が大きく開いたのが見えた。
 彼は、途方に暮れた顔になった。
 そんなのは、今までで初めてだった。


 考えがまとまる前に、絵津は突然自転車を回して、角の右側まで戻った。 思いもかけない強い感情が、絵津を押し流していた。
 道を覗くとき、半分確信していた。 真路は、もういない。 さっさとどこかへ行ってしまってる。
 だから、思いもかけず彼の姿が目の前にクローズアップされたとき、体が硬直した。
 どうすればいいか、わからなくて。


 真路は、凄い勢いで近付いてきていた。 一秒でも早く、四つ角にたどり着きたいというように。
 そんな彼が、絵津を見たとたん、ピタッと静止した。


 四メートルほど離れて、二人は見つめ合った。
 間もなく、真路の唇が小さく痙攣し、目が充血した。
 斜めにうつむいて激しく瞬きすると、睫毛の間から水滴が飛び散るのがかすかに見えた。


 ようやく視線が外れたので、絵津は金縛りから解けた。
 それで、自転車を引きずって、のろのろと真路に近付いた。
「あの……三日前にこっち来たの」
 目を逸らしたまま、真路は固い声で訊いた。
「あいつと一緒に?」
 すぐには誰のことかわからず、絵津は迷った。
「あいつって……ああ、大崎さんのこと? 来てないよ。 木実んとこへ呼ばれただけ」
「でも、付き合ってるんだろう?」
 絵津は言葉に詰まった。
 友達以上、恋人未満は、付き合ってると言えるのだろうか。








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