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表紙

火の雫  71
 買ってきたものをテーブルに置いて、絵津は静かに答えた。
「大崎さん。 借りてた部屋のオーナーの息子」
「あいつ何度もチャイム押してた。 知らない顔だから無視してやったけど」
 それから真路はゆっくり振り返った。 定かではなかったが、絵津の顔をまっすぐ見据えているように感じられた。
「ずいぶん立ち話してたな」
「うん」
「連れ戻しに来たんだ?」


 ずばりと言われて、絵津は固まった。
 だが同時に、もう自分の口から説明しないでいいという安心感も心をよぎった。
「真路」
「なに?」
「私、逃げ出さないことにした」
 わずかな沈黙が続いた。 真路が口を開かないので、絵津は苦心しながら言葉を続けた。
「学校へ戻る。 卒業したら働いて、世話になった人に借りを返す」
 まだ真路は黙っていた。 体も動かさない。 増してくる圧迫感に、絵津はよろめきそうになった。
「泊めてくれて、すごい嬉しかった。 学校が近いなら、ここから通いたいけど、無理だから。 でも」
 でも、真路とはこれっきりになりたくない。
 そう言いかけたとき、真路の声が切り込んできた。 まるで刃物のように。
「いいよ、別に。 絵津が選んだんだから」
 絵津は唇を湿らせた。 三メートルぐらいしか離れていない真路が、みるみる遠ざかっていく気がした。
「始めたことはちゃんとやりたいの。 母さんみたいな生き方はしたくない。 次々と恋人作るのも嫌。 だから」
「だから?」
 突然、真路が笑い声を上げた。 いつものくったくない様子とは別人のような、苦く冷たい笑いだった。
「あのひとが浮気症だから、今の俺たちがあるんだろ?」


 なんの話?
 わからなかった。 まったく理解できなかった。
 だが、嫌な予感が氷の渦となって足元から這い上がってきた。 絵津は、顎の付け根が固まり、口を動かしにくくなった。
「浮気症って……なによ」
「聞いてないの?」
 ようやく真路の体が動いた。 それも、大きく揺らいだ。
「隠し通せると思ってたんかな。 ほんとバカじゃねーの」
「何のこと!」
 耐えられなくなって、絵津は大声で叫んだ。 真路は一歩彼女に近付き、そこで立ち止まった。


「絵津の父親は、貝原昭洋じゃない。 うちの親父なんだ」






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