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表紙

火の雫  70
 淡い微笑を保ったまま、大崎が訊いた。
「これから一緒に帰る? 今日は電車で来たんだけど、荷物持っていくなら、すぐレンタカー借りられるよ。 僕、社員だから」
 絵津は瞬きした。
「真……加賀谷さんに言っとかないと。 半月も泊まらせてくれたから」
「置手紙かメールじゃまずい?」
「ちゃんと向き合って説明したい」
「でも」
 背後の建物を振り返って、夕陽のまぶしさに大崎は目を細めた。
「今は留守みたいだよ。 さっきチャイムを鳴らしたけど、返事がなかったから」
「じゃ、帰るまで待ちます」
 大崎の表情が変わった。 笑顔が失せ、少し固くなったように見えた。
「なんか心配だな。 部屋から出さないって閉じ込められたりしないかな」
 絵津は危うく吹き出すところだった。 そんな情熱が真路にあったら、絵津は迷うことなく彼を離さなかっただろう。
「それはないです、絶対」
「絶対なんて言い切れないよ」
 珍しく、大崎が忍耐の切れた声を出した。
「ともかく、荷物だけでも運んでおいたほうがいい。 車借りてくる」
「え?」
「すぐ戻ってくる。 別れるときが危ないんだから、気をつけて」」
 別れるなんて言ってません、という言葉が出ないうちに、大崎はきびきびと道路を渡り、迷いなく駅方面へ曲がっていって姿が見えなくなった。




 こっちから別れるなんて言ってない。
 絵津は、何度も頭の中で繰り返しながら、エレベーターで上がった。
 別れたいわけじゃない。 でも、せっかく引き取ってくれたのに、好意を無にするような真似をしたら、結果は見えていた。
 真路はもてる。 身元の不安定な小学校の後輩なんかに、こだわる理由はないはずだ。
 私はふられる。
 絵津は、そう確信していた。


 乱れた手つきで玄関の鍵をあけようとして、絵津はびくっとなった。
 開いている。
 そっとドアを動かしてすべりこむと、脱ぎ捨てたスニーカーが見えた。
 真路は、部屋にいたのだ。


 だいぶ暗くなってきていたが、どこにも電気はついていなかった。
 リビングに入った絵津は、サッシのガラス戸の前に立つ真路の姿をみた。 外からのぼんやりした光で、彼は灰色のシルエットになっていた。
「ただいま」
 絵津が囁くように言うと、背中を向けたまま、真路は驚くほどくっきりした声で尋ねた。
「何もんだ、あいつ?」






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