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表紙

火の雫  68
 やがて授業が始まり、真路はほとんどの平日、外出するようになった。
 午後はともかく、朝から部屋に一人置いていかれると、絵津は落ち着きを失った。
 食事の支度以外、することがない。 テレビはすぐ飽きるし、出かけたくても、彼女の年頃で、午前中にふらふらしている子はまずいなかった。
 時間を無駄にするのはもったいない。 二日間手もちぶさたで過ごした後、絵津は教科書を何冊か引っ張り出して、自分で勉強することにした。
 英語と数学には、市販のアンチョコを買ってあった。 だから、一人でも間違って覚える心配はない。 絵津は真路の座卓にテキストと辞書、ノートを広げ、宿題をやるような気分で、こつこつと書き始めた。


 真路の帰りが遅い日は、夕方に買い物へ行くことがあった。
 真路は、ベッドのヘッドボードの棚に財布を無造作に置いていた。 中には札と硬貨を取り混ぜて、いつも三万円ぐらい入っていた。
「あそこから出して使いな。 無くなったら、また入れとくから」
 初めてこの部屋に来た日、彼はそう言って、黒い財布を指差してみせた。
 適度な金額だ。 日常に不自由はしない。 が、持ち逃げしたいと思うほど高額でもない。
 ちょっと溜め息をつきながら、絵津は財布を開いて五千円札と小銭を手に取り、膝下丈のジーンズ姿で商店街へ出かけた。


 九月半ばの金曜日だった。
 町は買い物客で賑わっていた。 自転車で行き交う主婦の間に、ちらほらとグレーのセーラー服が見え隠れする。 近場の高校の制服らしかった。
 平凡な母校の正門が、不意に頭をよぎった。 門限が近くなると、当番の先生が行ったり来たりする。 学校指定の靴でバタバタ走る新入生の足音が思い出されて、懐かしかった。
 二年生ともなれば度胸が坐って、靴は勝手に好みの物を買うし、門限破りの術も心得ている。 学校の居心地がよくなってくる頃なのだ。
 いつもみたいに登校できたらなぁ。
 これまでにないほど、強く願った。
 夕暮れ時で、感傷的になっていたのかもしれない。


 やや厚底のサンダルから少し覗いた指先を、絵津はぼんやり眺めながら帰った。
 エコバッグは持っていないから、スーパー袋をだらんとぶらさげたままだ。 もう空は暗くなりかけていて、紫とクリームの混じりあったぼかしの色合いに染まっていた。
 もうじき、本格的な秋だ。 衣替えをしなくちゃいけない。 セーターとかコートとか買えば、また真路に負担をかけてしまう。
 気づまりだな、と小さく吐息をついたとき、マンションが見えてきた。
 そして、思いがけないものも。


 入口近くにある小型ベンチから、さっと大崎優が立ち上がった。








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