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表紙

火の雫  61
 これからすぐ行く、どうせ暇だし、と真路は言った。 だが、絵津は少し考えて断わった。
「よそう。 今はまだ昼間だから。 後で起きてくる静さんに怪しまれる」
「じゃ、六時に車転がしていく」
 絵津は胸苦しくなった。
「あの……ほんとにいいの?」
「いいよ。 俺の部屋2DKだから、荷物置く場所あるし」
 ワンルームじゃないんだ。
 恵まれている真路の暮らしに、絵津は羨ましさを押さえきれなかった。
 幸せだな、真路は。


 マンションの自室に帰ると、絵津はまず、汗になった外着とシーツ、枕カバーを洗濯機に入れ、シャワーの後、普段着に替えた。
 夜の仕事なので、静の備え付けた洗濯機は乾燥兼用になっている。
 服と学用品、身の回りの物だけを、絵津は大きなバッグ二つに詰めていった。 引越し屋から転居先がばれるから、家具は持っていけない。
 その間に、賢い洗濯機はすべての動作を終わらせ、絵津が洗面所に行くと、もう自動的に電源が切れていた。


 部屋を掃除し、シーツと枕カバーをきちんと畳んでベッドの上に並べてから、絵津は貝殻模様のミニ便箋に置手紙を書いた。 宛名は、細川静様だった。


『静さん
 お世話になりました。 友達のところに行きます。 落ち着いたら電話します。 心配しないでください。
絵津』



 読み返して、絵津は小さく溜め息をついた。
 ガキっぽい手紙だ。 行き場所を詳しく書けないから、どうしてもぶっきらぽうな文面になってしまう。
 バッグをドアの近くに置いたとき、また吐息が洩れた。 気さくで親切な静と、こんな形で別れるのは残念だった。
 カーテンを引く前に、忘れ物はないかと、絵津は部屋の中を丁寧に見回した。
 そこで気付いた。 壁にかけた絵に。
 似合う額縁を買ってきて、起きたらすぐ目に入るところに、きちんと飾ってあった。
 絵津は、ゆっくり歩み寄り、絵を壁から外して額を取った。 そして、ショルダーバッグの中に入れた。









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