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表紙

火の雫  57
 絵津の胸の中で、何かがビクンと跳ねた。
 真路の声には、無意識の軽蔑が篭もっていた。 母とうまく行かなくなっている状態でも、絵津には不愉快だった。 血の繋がる家族として、女として。
「ビッチって、何よ」
 絵津は静かに尋ねた。
「もと水商売だったから、そんなこと言うの?」
「ちがうよ」
 真路はぶっきらぼうに答えた。
「あっちが俺を悪く言うからだろ? 祥子〔しょうこ〕は俺の彼女じゃないし、これからもなりっこない」
「わかった」
「ほんとに?」
「うん」
 もう不愉快な言い合いを避けようとして、絵津は話題を変えた。
「じゃ、明日の何時にどこで会う?」
「来るか?」
 真路の声が明るくなった。


 志田下海岸は、九十九里浜の南端あたりにある。 木更津から東浪見〔とらみ〕まで、真路たちは房総半島を車で横断する予定だった。 約五十キロの行程で、朝十時に出発するとのことだ。
「私はサーフィンできないから、荷物番してるわ」
「志田下はサーファーでも上級者向きなんだ。 まして高波だと、トーシローは危険だよな。 やってるとこ見て、気に入ったらもっと楽な所で教えちゃるよ」
「うん」
 今回はただ見ているだけになりそうだが、できれば一緒に遊びに行きたい。 絵津は泳ぎなら一通りできるので、サーフィンも練習すればなんとかなると思った。
「頼むね」
「おし。 じゃ明日、十時前に」
「はい」
 電話を切ったときには、心のもやもやはあらかた消えていた。 完全にとはいかなかったが。


 リビングへ行くと、ドレスケースを手にした静が玄関へ向かおうとしているところだった。
「ああエッちゃん」
 くったくなくニコッとされて、静がまだ母から何も聞いていないのを、絵津は悟った。
「今夜もお留守番頼みます。 悪いわね、いつもすれ違いで、一人にしちゃって」
「いえ。 あの、明日友達と朝から出かけます」
「そう。 どこへ?」
「海です。 九十九里浜」
「夕方には帰るの?」
「はい」
「楽しんでらっしゃいね。 もう夏休み、そろそろ終わりだもんね」
 静は陽気にうなずき、片手を振って挨拶してから部屋を出ていった。










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